すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【和田義盛ゆかりの地】薬王院(大和市)

こんにちは、よたろうです。

今回は大和市薬王院を紹介します。

データ

  • 名称:生養山 信法寺 別院 薬王院
  • 宗派:浄土宗
  • 本尊:阿弥陀如来
  • 拝観料:志納
  • 訪問日:令和4年6月11日

www.yamato-kankou.com

眼病平癒の仏様

隣地にある信法寺の別院である薬王院は、この地の地頭であった和田義盛が目の病気を患った際に薬師如来に祈り、17日目に平癒に至ったのだと伝えられています。

細いながらも交通量の多い道路沿いにあります

素朴な風合いの本堂

その薬師如来の霊験に与った和田義盛は、侍所別当となった暁にはお堂を創ると誓い、実際にその職に就くと自らの誓いのとおりにお堂を建てて薬師如来を祀ったのだそうです。

約束を守る漢・和田小太郎義盛

こうして薬王院は「目の仏様」として信仰されるようになりましたが、その他にも和田義盛が薬効のある生姜を食したことにちなんで、薬師如来の縁日である毎年9月7日と8日には眼病平癒にご利益がある「薬師芽生姜」が販売されるそうですよ。

また、読経に合わせて太鼓や鉦を打ち鳴らす、大和市重要無形民俗文化財に指定されている「双盤念仏」も毎年9月8日の縁日で行われるとのことです。

無病息災・家運隆昌のご利益があるそうです

なお、薬師如来像は12年に一度の寅年に御開帳が行われますが、今年(2022年)がその年に当たるとのことですので、この機会に眼病平癒の祈願や和田義盛公へのお参りに行かれてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、境内に掲示されていた、和田義盛公が「ゴミは持ち帰るでござる」と呼びかけるこの注意書き……

ポイ捨てしたら斬首じゃ(意訳)

下部に小さくこんなことが書いてありました。

県立大和南高校がある場所は城山といわれ、和田義盛公の城があったとされます。

ここから歩いて10分足らずのところにある大和南高校が和田義盛公の居城跡……たしかにこの薬王院および大和南高校がある地域は「上和田」という地名ですから、この辺りが和田義盛とゆかりが深いことは想像に難くありませんが、まったく知りませんでしたよ。

残念ながら調べてみてもとくに城跡であったことを示す碑などがあるわけではなさそうなので立ち寄りませんでしたが、何が知識のキッカケになるか分かりませんね。フィールドワークにおいては注意書き一枚として見落としてはいけないと、勉強になります。

アクセス

神奈川県大和市上和田2707-1
小田急江ノ島線 桜ヶ丘駅高座渋谷駅から徒歩約20分
駐車場なし(本院の信法寺に駐車場あり)

【源頼朝・源義経ゆかりの地】公所浅間神社(大和市)

こんにちは、よたろうです。

今回は大和市の公所(ぐぞ)浅間神社を紹介します。

データ

sengenjinja.web.fc2.com

大和市に伝わる鶴舞伝説

創立年代は不詳のようですが、源頼朝が創建したと伝わるこの公所浅間神社。周辺には「つきみ野遺跡」という旧石器時代の遺跡が数多くあるなど、歴史的に「濃い」地域に鎮座しています。

かつての鶴間郷の総鎮守と伝わっています

源頼朝の創建と伝わる、との記載があります

この辺りは大和市の「下鶴間(しもつるま)」という地域ですが、この「鶴間」という地名にはいくつかの由来があり、その一つとして源義経がこの地を通ったときに鶴が舞うのを見た……というものがあります。「鶴舞い」が転じて「鶴間」になったということですね。
源頼朝が富士の鷹狩りの帰途にこの地を通り、鶴が舞うのをみて「鶴舞の里」と名付けたという説もあります。

この地には「鶴舞伝説」という伝承があり、それによると、壇ノ浦で平家を討ち滅ぼした源義経が、後白河法皇から官位を受けるなど源頼朝の意にそぐわぬ行動を重ねたことで鎌倉への凱旋を許されず、「腰越状」で知られる満福寺での待機の末に諦めて京へ向かう途中でこの浅間神社で休憩をしたそうです。

ここで鎌倉のほうへ飛んで行く一羽の鶴を見て「鶴でさえも自由に鎌倉へ行けるのに、平家を滅ぼした自分の凱旋が許されないとは」と嘆き、頼朝への土産として持ってきていた黄金等の数々の財宝を境内のどこかに埋め、お堂に「あさ日さし 夕日かがやく木の下に 黄金千両漆満杯」という歌を書き残して去っていった……とのこと。

そう、この地には義経の財宝の伝説が残っているんです!

……ただし、現在の公所浅間神社は往時とは違う場所に遷座されているので、この境内を掘り起こしても財宝は出てきませんので、くれぐれも妙な気は起こされませんようご注意ください(笑)

昭和50年に現在の地に遷座されたそうです

とはいえ、やっぱり「黄金千両漆満杯」というのは気になります。真偽のほどはともかくとして、いつの世も「財宝」や「埋蔵金」というワードには人々の胸をときめかす魔力がありますよねぇ。

アクセス

神奈川県大和市下鶴間391
東急田園都市線 つきみ野駅から徒歩約15分
駐車場あり

【北条政子ゆかりの地】馬洗橋(横浜市港南区)

こんにちは、よたろうです。

今回は横浜市港南区にある、馬洗橋を紹介します。

データ

  • 名称:馬洗橋
  • 訪問日:令和4年6月4日

www.city.yokohama.lg.jp

馬を洗った尼将軍

「新編相模国風土記稿」に記されたところによると、この馬洗(うまあらい)という川と橋の名前は、北条政子が馬を駆ってこの地を通り、川辺で汗と塵にまみれた馬を洗ったことに由来しているそうです。
※この近辺に住居表示や街区表示としての「馬洗」という地名はありません。

この逸話は、横浜市港南区の区政25周年を記念して平成6年に発行された「ふるさと港南の昔ばなし」に掲載されている民話の一つである「馬を洗った尼将軍」で詳しく紹介されています。

環状2号線に架かる歩道橋の下にある碑

橋の名前の由来となった逸話が書かれています

ざっくりと紹介すると、政子が鎌倉から15kmほど離れたところにある横浜市内で最古の寺院であり源将軍家累代の祈願所であった弘明寺(ぐみょうじ)に参詣する途中、ここで休息をとっていた二人の若武者の姿に亡き頼家・実朝兄弟を重ね合わせて優しく声をかけ、「尼将軍」ではなく一人の母親として、深くかぶった市女笠の下に母親の辛さや悲しさを覆い隠した……といった内容です。

上記「データ」の項のリンクに「馬を洗った尼将軍」の全文が掲載されているので、興味のある方はご覧になってみてください。

現在は、環状2号の交差点(五七五)

源実朝の没年が建保7年(1219年)、政子の没年が嘉禄元年(1225年)なので、この民話の舞台となっているのはこの間ということになりますが、権謀術数が渦巻き、血で血を洗う骨肉の争いが繰り広げられていた当時の鎌倉を思えば、ほんの一時でも「母親」の顔に戻った政子の心情も分かろうというものですよね。。。

なお、鎌倉の世には旅人たちの憩いの場となっていたとみられるこの馬洗川も、現在は1kmあまりが地表に見えているだけで、あとは暗渠になっている様子で往時の面影はありません。

陸地から見えているのは思いのほか短い区間

確認できた魚はこの子のみ

ちなみに、環状2号線の馬洗橋交差点のある周辺は「ラーメン街道」とも呼ばれる、十数軒のラーメン屋さんが林立する激戦区ですので、訪れる機会がありましたらぜひラーメンのほうもご賞味ください。

アクセス

横浜市港南区丸山台1-7
横浜市営地下鉄 上永谷駅から徒歩約5分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)

【武蔵坊弁慶ゆかりの地】弁慶塚(茅ヶ崎市)

こんにちは、よたろうです。

今回は茅ヶ崎市にある、弁慶塚を紹介します。

データ

  • 名称:弁慶塚
  • 訪問日:令和4年5月30日

www.chigasaki-kankou.org

もう一つの弁慶塚

国道1号線の鳥井戸橋交差点にある、鶴嶺八幡宮の参道の大鳥居をくぐってすぐ右手に、この弁慶塚があります。

鶴嶺八幡宮の大鳥居

民家の敷地内ですが、自由にお参りできます

弁慶塚といえば、藤沢市武蔵坊弁慶の首を祀った「八王子社」跡である弁慶塚がありますが……

kamakura13.hatenablog.com

今回紹介するこちらの弁慶塚は、源頼朝相模川に架かる橋を渡った帰路に源義経源行家一族の亡霊に驚いて落馬し、重傷を負ったことが原因で死去したいう逸話を聞いた里人が、義経一族の霊を慰めるために作ったとされています。

源頼朝の死にまつわる史跡(旧相模川橋脚)に関する記事を書いていますので、よろしければこちらもご覧ください。

kamakura13.hatenablog.com

また、ここから歩いて10分ほどのところには主君である源義経の霊を慰める御霊神社がありますが、こうして従者である弁慶の碑もあるというのに、義経とともに源頼朝の前に亡霊となって現れたとされる源行家を祀る寺社や碑は、残念ながらこの辺りにはありません。

kamakura13.hatenablog.com

そういえば、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回「果たせぬ凱旋」で、杉本哲太さん演じる源行家が退場となるシーンでこんなナレーションがありましたね。

源行家。彼を味方をつけた者は、必ず負けるという死神のような男。鎌倉方に捕まり、首をはねられるのは、これより少し後のこと。

何だかずいぶんな扱いでしたが、実際の十郎叔父も実は面倒くさい人物で、相模国の里人たちにもリスペクトされていなかったが故に祀られていないのでは……などと考えると不憫でなりません。

……って、弁慶ゆかりの地の記事なのに後半はほとんど源行家に関することばかりになってしまいましたね。反省。。。

アクセス

神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843付近
※民家の敷地内ですので、迷惑にならないようにご注意ください。
JR 茅ヶ崎駅から徒歩約25分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)

【源義経ゆかりの地】御霊神社(茅ヶ崎市)

こんにちは、よたろうです。

今回は茅ヶ崎市の御霊神社を紹介します。

データ

  • 名称:御霊神社
  • 祭神:鎌倉権五郎平景政
  •    九郎判官 源義経
  • 訪問日:令和4年5月30日

www.chigasaki-kankou.org

源頼朝を死に至らしめた義経の亡霊を祀る神社

創建年代は不詳のようですが、言い伝えによると治承年間(1177年~1182年)にこの一帯を治めていた平景能(=大庭景義。大庭景親の兄)が、この地にあった毘沙門堂に祖先の鎌倉景政の霊を祀ったのが、この御霊神社であるとされています。

民家に囲まれた、ひっそりとした参道

小さいながらも、どこか風格のある社殿

建久9年(1198年)、源頼朝相模川における橋の落成供養の帰路に現れた源義経らの亡霊に驚いて落馬をして重傷を負ったことが原因で翌年死去したとされていますが、その義経の怨霊を鎮めるため、里人たちが義経の霊をこの神社に合祀したと伝わっているそうです。

経緯はこちらの由緒に詳しいです

源頼朝の死にまつわる史跡(旧相模川橋脚)に関する記事を書いていますので、よろしければこちらもご覧ください。

kamakura13.hatenablog.com

しかし、吾妻鏡をはじめとした史料から読み取られる「史実」が必ずしも「事実」ではないのは百も承知ですが、当時の鎌倉界隈に様々な怨念が渦巻いていたであろうことに疑う余地はなく、亡霊だ怨霊だという多少オカルトチックな逸話であっても「きっとそうだったんだろうなぁ」と納得してしまいますよね。

ちなみに、私がここを訪れたのは平日の夕方だったので周囲に人はまったくいませんでしたが、地元がこういった「ゆかりの地」としては大河ドラマで取り上げられるというのは大きなイベントのようで、この御霊神社の社殿の近くには氏子さんたちやご近所の方々が作ったと思しき掲示板が設置されており、ちょっとほっこりとした気持ちになりました。

手作り感あふれる掲示

今後も「鎌倉殿の13人」のゆかりの地めぐりを続ける中で、こういった実際に足を運ばないと分からない「ちなみに」も、できる限り紹介していきたいと思います。

アクセス

神奈川県茅ヶ崎市南湖2-9-10
JR 茅ヶ崎駅から徒歩約20分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)

【源頼朝ゆかりの地】旧相模川橋脚(茅ヶ崎市)

こんにちは、よたろうです。

今回は茅ヶ崎市にある、旧相模川橋脚を紹介します。

データ

  • 名称:旧相模川橋脚
  • 大正15年 国の史跡に指定
  • 平成25年 国の天然記念物に指定
  • 訪問日:令和4年5月30日

www.city.chigasaki.kanagawa.jp

源頼朝の謎の死に深い関わりを持つ史跡

国の史跡・天然記念物に指定されています

大正12年(1923年)の関東大震災とその余震によって、地中に埋まっていた橋杭が水田に出現したというこの旧相模川橋脚は、建久9年(1198年)に源頼朝重臣であった稲毛重成が亡き妻(北条時政の娘)の供養のために架けた橋の橋脚と考えられているそうです。

現在見えているのはレプリカ

歴史や保存方法を詳しく解説する掲示があります

この橋の落成供養に源頼朝一行が渡り初めをしたその帰路、鶴嶺八幡宮にさしかかったときに源義経源行家らの亡霊が現れ、驚いて落馬をした頼朝は重傷を負い、翌正治元年(1199年)に死去したとされています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、源頼朝が波乱に満ちた51年の生涯を閉じ、嫡男・頼家が二代目の「鎌倉殿」となってからが物語の本番を迎えることになろうかと思いますが、三谷幸喜さんがこの悲劇がどう描くか注目ですね。あるいは、またしても善児が暗躍することのなるのでしょうか……

※執筆時点では奥州征伐後、八重さんの身に悲劇が訪れるところまでが放送されています。

なお、ここから歩いて20分ほどのところにある龍前院とういお寺さんには十基の五輪塔がありますが、これらは源頼朝の落馬の責任を取って自害をした、警護の武士10人の墓とも伝わっているそうです。

懐嶋山 龍前院

頼朝の警護に付いた武士たちの墓と言われています

鎌倉のみならず、当時の日本全土に衝撃を与えるほどの大事件だったと思いますが、警護も文字通り命懸けだったんですね。。。

ちなみに、この旧相模川橋脚から西へ1.5kmほどのところに茅ヶ崎市平塚市を結ぶように架かる「馬入橋(ばにゅうばし)」があります。お正月の箱根駅伝のコースにもなっているため、ちょっと珍しいその名前を聞いたことのある方も少なくないと思いますが、この「馬入」という地名は前述の源頼朝の落馬にまつわる逸話に因んでいます。

他にも、この近辺には源頼朝が見たとされる亡霊を鎮めるために建立された神社や塚もありますので、後日また別の記事で紹介しますね。

※2022年6月6日追記※

kamakura13.hatenablog.com

kamakura13.hatenablog.com

アクセス

【旧相模川橋脚】

神奈川県茅ヶ崎市下町屋1-3
JR 茅ヶ崎駅から徒歩約35分
神奈中バス 「今宿」バス停から徒歩約5分
駐車場なし(龍前院は駐車場あり)

【龍前院】

神奈川県茅ヶ崎市浜之郷356
JR 茅ヶ崎駅から徒歩約30分
神奈中バス 鶴嶺小学校前バス停から徒歩約8分

【源義経・武蔵坊弁慶ゆかりの地】白旗神社(藤沢市)

こんにちは、よたろうです。

今回は藤沢市白旗神社を紹介します。

データ

  • 名称:白旗神社
  • 祭神:寒川比古尊(さむかわひこのみこと)
  •    源義経
  • 訪問日:令和4年5月28日

源義経を祭神として祀る神社

創建された年代は詳しくは分かっていないようですが、鎌倉に送られてきた源義経武蔵坊弁慶の首が首実検の後にこの神社に飛んできたことを聞いた源頼朝が「義経を白旗明神としてこの神社に祀るように」と指示をし、源義経を祭神とした白旗神社となった……と伝わっているそうです。

大きな石造りの鳥居

なかなかの情報量な由緒

 

歴史を感じる厳かな社殿

史実から読み解かれる源頼朝は、実の弟であっても勝手な行動をする者は容赦なく討つという非情な人物として描かれることが多いですが、こうして義経や郎党の霊を慰める神社を創らせたということは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれたように実は決して本意ではない粛清だったのかもしれませんね。もちろん、シンプルに義経らの祟りを恐れての行いかもしれませんが……。

なお、ここ白旗神社には令和元年(2109年)の令和御大典・源義経公没後830年・鎮霊碑合祀20年記念事業の一つとして建立された、源義経武蔵坊弁慶銅像があります。まだまだ真新しさを感じますが、迫力のある立派なこの銅像は一見の価値ありですよ。

建立からまだ2年半の新しい銅像

また、上記の「鎮霊碑合祀20年」というのは義経の亡骸が葬られた宮城県栗原郡栗駒町、および首が葬られたこの藤沢の地の有志によって平成11年(1999年)に斎行された「御首」「御骸」の霊を合わせ祀る鎮霊祭から20年が経ったことを指しますが、境内にはその際に建立された「源義経公鎮霊碑」があります。

源義経公鎮霊碑

このように、ここ白旗神社には源義経武蔵坊弁慶にまつわる数々の伝承があります。ここからほど近い場所には義経の首洗い井戸、および弁慶の首を祀った社跡である弁慶塚がありますが、白旗神社を含むこの一帯は今後も何百年・何千年と日本全国で末永く語り継がれるであろう主従の聖地の一つと言えると思います。

kamakura13.hatenablog.com

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御朱印にも義経と弁慶

ちなみに、社殿の脇には「弁慶の力石」がありますが、こちらには武蔵坊弁慶に直接のいわれはなく、「力持ち」の比喩表現としての「弁慶」のようです。

弁慶の力石

アクセス

神奈川県藤沢市藤沢2-4-7
小田急江ノ島線 藤沢本町駅から徒歩約5分
駐車場あり