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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【木曾義仲ゆかりの地】大蔵館跡(大蔵神社)(比企郡嵐山町)

こんにちは、よたろうです。

今回は比企郡嵐山町にある、大蔵館跡(大蔵神社)を紹介します。

データ

  • 名称:大蔵館跡(大蔵神社)
  • 祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと)
  •   :伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
  •   :伊弉冉尊(いざなみのみこと)
  •   :大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
  •   :譽田別命(ほんだわけのみこと)
  • 訪問日:令和4年9月21日

www.town.ranzan.saitama.jp

「朝日将軍」木曾義仲の生誕の地

大蔵館は、平安時代末期の仁平2年(1152年)に河内源氏の棟梁・源為義の次男である源義賢によって築かれた館で、都幾川沿いの台地にあったとされています。

うっかり見逃しそうになる「大蔵館跡」の標柱

現在の大蔵館跡地内には大蔵神社と伝城山稲荷がありますが、境内に神社の由緒・縁起の書かれた案内板等がなく、詳細はよく分かりません。

参道脇の標柱には「大蔵神社」の表記のみ

右が大蔵神社の社殿、左が伝城山稲荷の社殿

私はブログを書く際には①現地の案内板②公式WEBサイト自治体や観光協会のWEBサイトという順で参考にしながら構成しますが、この大蔵神社に関しては①が無く、②③も詳しく書かれたものが見当たらず……ということで、いつもより書くのにちょっと苦労しています(笑)

話を戻しましょう。
久寿2年(1155年)、この大蔵の地で武威を高めた源義賢は、兄である源義朝の長男・源義平(通称・鎌倉悪源太)に襲撃されて討たれてしまいます(大蔵合戦)。

義賢の次男として大蔵館に生まれ、当時2歳だった駒王丸は、畠山重忠の父である畠山重能に助けられて木曽に落ち延び、後の木曾義仲となったという伝承があります。

詳しくはこちらを拡大してご覧ください

ちなみに、木曾義仲の異名である「朝日将軍(旭将軍)」は、平家物語によると後白河法皇にいただいた称号で、俱利伽羅峠の戦いをはじめとした数々の戦で、まるで日の出のような勢いで進撃したことに由来しているようですが、官位ではなくあくまでもニックネームのようなもののようですね。

なお、この大蔵館跡から都幾川を挟んだ対岸には畠山重忠の居館であった菅谷館跡があり、車で数分のところには木曾義仲の産湯に使った清水が湧くという鎌形八幡神社があります。

kamakura13.hatenablog.com

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このように、嵐山町源義賢・義仲親子や畠山重忠にゆかりの深い寺社や史跡が数多くありますので、ぜひセットで巡ってみてはいかがでしょうか。

……などと知ったようなことを書いておりますが、実はこの地を訪れるために色々と調べるまでは、木曾義仲のことを「"木曾"義仲っていうくらいだから信濃の出なんだろう」なんて思っていまして、生まれが坂東であることを知らなかったんですけどね(笑)

アクセス

埼玉県比企郡嵐山町大蔵522
「大蔵神社前」バス停から徒歩約1分
駐車場なし