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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【源範頼ゆかりの地】息障院(伝範頼館跡)(比企郡吉見町)

こんにちは、よたろうです。

今回は比企郡吉見町の息障院(伝範頼館跡)を紹介します。

データ

www.town.yoshimi.saitama.jp

源範頼の館跡と伝わる古刹

息障院は天平年中(730年頃)に行基菩薩によって創建されたとも、大同年中(806年頃)に時の征夷大将軍坂上田村麻呂の開基によって創建されたとも伝わる古刹で、この一帯が源範頼の居館であったと伝えられています。

緑豊かな参道の入り口

源範頼の館であったことを示す標柱

源頼朝の異母弟である源範頼は、平治の乱後にこの地に逃れて比企氏の庇護の下で成長し、頼朝が鎌倉幕府を開いた後もこの地で過ごしていたことから、館を中心とした一帯が、今日も地名として残る「御所」と呼ばれるようになったそうです。

立派な松の木が印象的な本堂

建久4年(1193年)に曾我兄弟の仇討ちが起こった際、「源頼朝が討たれた」との誤報に悲嘆に暮れる政子に「後には某が控えておりまする」と述べたことが謀反の疑いを招き、伊豆に流されてしまった範頼ですが、その後については不詳であり、「修善寺で自刃」「太寧寺(現横浜市金沢区)で自刃」「伊予国河野氏を頼り、そこで没した」「北本市石戸宿で没した」などの諸説があるそうですが……

私は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見て色々と調べるまで「源範頼」という名前は何となく聞いたことがある……といった程度の知識しか持ち合わせていなかったため、劇中で修善寺で善児の毒牙にかかって命を落としたというのが、まるで事実かのように思えて仕方がありません(笑)

範頼の没後は、嫡男の範円、範円の子である為頼に至って「吉見」を苗字とし、子孫は御家人として存続して「吉見氏」と称したとされています。

ちなみに、息障院の正式名称は「岩殿山 息障院 光明寺」ですが、「息障院」というのは坂上田村麻呂承平天慶の乱の際に平将門の調伏を祈る護摩を修したことから、朝廷より「障りを息(や)めさせる」という意味が込められた「息障院」の院号を賜ったのだそうです。

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通称が「光明寺」ではなく「息障院」なのは、朝廷から下賜された名前だから……ということなのでしょうね。
※お寺の通称は「寺号(○○寺)」「院号(○○院)」でどちらの格が上とか、中身が違うとかいうことはないそうです。

アクセス

埼玉県比企郡吉見町御所146
「久保田」バス停から徒歩約25分
駐車場あり