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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【後白河法皇ゆかりの地】三十三間堂(京都市東山区)

こんにちは、よたろうです。

今回は京都市東山区三十三間堂を紹介します。

データ

  • 名称:蓮華王院 三十三間堂
  • 宗派:天台宗
  • 本尊:千手観音
  • 拝観料:600円
  • 訪問日:令和5年3月10日

https://www.sanjusangendo.jp/

法住寺殿の一画に建てられた蓮華王院の本堂

三十三間堂は、後白河法皇が自身の御所内に創建した仏堂で、建物の正式な名称を「蓮華王院本堂」といい、蓮華王院というお寺の本堂……であることを意味しています。

数々の国宝の仏像が安置されるこの本堂も国宝

三十三間堂を本堂とする蓮華王院は、平安時代末期に約30年の長きにわたって院政を敷いた後白河法皇が、当時権勢を誇った平清盛の資材協力によって自身の御所(法住寺殿)内に創建したもので、敷地内の庭園にはこの辺りが法住寺殿であったことを示す「法住寺殿址碑」が建っています。

「此附近 法住寺殿址」と書かれています

kamakura13.hatenablog.com

庭園内にはこの他にも、元久元年(1203年)に土御門天皇後白河法皇の十三回忌を行った際に法然上人がこの地で法要を執り行ったとされる「法然塔」や、後白河法皇の没後800年を記念した「後白河法皇八百年聖忌記念」の石碑といった、後白河法皇ゆかりの地であることを示す碑が建てられています。

「南無阿弥陀佛」の六字名号の碑(左)と法然塔(右)

後白河法皇没後800年を記念する石碑

そんな後白河法皇の御所であった法住寺殿は寿永2年(1183年)の法住寺合戦で木曾義仲の焼き討ちに遭い、戦によって院の御所はそのほとんどが焼失してしまったものの、この三十三間堂は戦火を免れたといいます。

しかし、建長元年(1249年)に市中からの火災によって三十三間堂は焼失してしまい、今日の姿は文永3年(1266年)に再建されたのものなのだそうです。

「國寶 三十三間堂」との表示がある正面

それから約300年の時を経て、後白河法皇平清盛の栄華にあやかろうと考えた豊臣秀吉が、権勢を満天下に示すために三十三間堂の北隣に方広寺を造営し、三十三間堂後白河天皇法住寺陵をも境内に取り込んで築いた土塀が、南大門・太閤塀(ともに重要文化財)として今も残っています。

さて、三十三間堂といえば本尊を含む1001体もの千手観音像やその前に並ぶ二十八部衆像、内陣の左右端の風神・雷神像などの諸仏(いずれも国宝)抜きには語れませんが、当然のことながら堂内は写真撮影ができません。

しかし、仮に撮影ができたとしても、その言葉を失うほどの圧倒的な姿は決して写真で伝わるものではありませんので、ぜひ現地に足を運んで拝んでいただきたいと思います。

「小中学校の修学旅行で行った」という方も少なくないと思いますが、大人になってから拝観すると、その印象はまた一味も二味も違うと思いますよ。

アクセス

京都府京都市東山区三十三間堂廻り657
京阪電車 七条駅から徒歩約8分
駐車場あり