すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【源範頼ゆかりの地】源範頼の五輪塔(広島市佐伯区)

こんにちは、よたろうです。

今回は広島市佐伯区にある、源範頼五輪塔を紹介します。

データ

鎌倉から逃れた範頼が遭難して落命した伝説の地

源範頼五輪塔は、鎌倉時代の後期に範頼の末裔である吉見氏が現在地に建立したと伝わっています。

拡大すれば読めますかね?

※範頼の没後に子孫が「吉見氏」と称した経緯についてはこちらの記事をご参照ください。

kamakura13.hatenablog.com

老人ホームの敷地内にひっそりと佇んでいます

この地に源範頼五輪塔があると知ったときは「なぜ広島に?」という疑問を禁じえませんでしたが、謀反の濡れ衣を着せられて異母兄である源頼朝の不興を買い、鎌倉方に命を狙われるようになった範頼が、九州に落ち延びる途中の海上で嵐に遭って命を落とした……という伝説がこの地にはあるからなのだそうです。

荒れ果ててしまったために昭和47年(1972年)に取り壊されてしまったそうですが、吉見氏はこの五輪塔の他に「蒲冠者」「蒲殿」と呼ばれた範頼を祀る蒲神社(御曹子社)も建立したといわれています。蒲神社は明治の頃までは祭も盛大に行われていたといいますから、源範頼は長い年月に渡ってこの地で愛されていたのでしょうね。
※蒲神社はここから歩いて10分ほどの観音神社に合祀されたとのこと。

定説では伊豆に流された後、建久4年(1193年)に幽閉されていた修善寺で誅殺された……とされていますが、「吾妻鏡」には幽閉された後に関する記述はなく、誅殺されたと記す史料も範頼の失脚から100年以上経ってからのものしかないとのことですので、この伝説もあながち眉唾ではないのかもしれません。

ちなみに、この五輪塔は「喜生園」という養護老人ホームの敷地内にあるのですが、私が訪れたときは駐車場の工事が行われていて、ちょっと回り道をしないと行けない状態になっていました。

五輪塔へのアプローチは資材置場になっていて通れず……

看板も外されていました

また、最寄り駅である広島電鉄宮島線楽々園駅からこの「喜生園」という養護老人ホームへと至る道程は徒歩約15分ほどですが、住宅街の狭い路地はスマホでマップと睨めっこしながらでも少々分かりにくいかもしれないので、現地を訪れてみたいと思われる方はこの看板を目印にしていただければと思います。

この看板が見えたら左手の坂を登ってください

アクセス

広島県広島市佐伯区三宅2-1-2
広島電鉄宮島線 楽々園駅から徒歩約15分
駐車場あり(喜生園の駐車スペース利用可)

【平清盛ゆかりの地】厳島神社(廿日市市)

こんにちは、よたろうです。

今回は廿日市市厳島神社を紹介します。

データ

www.itsukushimajinja.jp

瀬戸内海の制海権を得た平清盛が造営した神社

厳島神社推古天皇元年(593年)、当時宮島を治めていた豪族・佐伯鞍職(さえきのくらもと)が神勅を受けて社殿を建てたのが始まりとされています。

平安時代の末期になると、瀬戸内海の制海権を手中に収めたことで巨万の富を得た当時の安芸守・平清盛が、夢枕に立った僧のお告げによって厳島神社の造営を行い、仁安3年(1168年)には今日と同程度の大規模な社殿が整えられたといいます。

燦然と輝く「國寶」の二文字

平清盛が造営したことで平家一族から篤い崇敬を受けた厳島神社ですが、清盛の官位が上がるにつれて承安4年(1173年)には後白河法皇、治承4年(1180年)には高倉天皇の御幸があるなど、多くの皇族が参詣したと伝わっています。

平家が滅亡し源氏の世になっても、宮島の人々は厳島神社を造営し篤く信仰した平清盛に対して愛着を持っており、没後770年にあたる昭和29年(1954年)には「清盛公の御遺徳を顕彰しよう」という機運が高まり、厳島神社の北西に位置する西松原に「清盛神社」が創建されました。

西松原にひっそりと佇む清盛神社

清盛神社の御祭神は平清盛公その人

宮島でフェリーを降りてすぐのところには平清盛の像がありますが、これは清盛が厳島神社の造営を指揮した50代の頃をイメージした姿とされ、京都の方角を向いているそうです。

法皇と同格であることを示す「僧侶鈍色五條袈裟姿」

なかなかに風格のある銅像ですよね。

さて、この厳島神社は社殿や拝殿など6棟が国宝に指定されていますが、それ以外にも重要文化財に指定されている建造物がありますので、象徴的なものをいくつかご紹介したいと思います。

まずは何と言っても宮島のシンボル的な存在でもある「大鳥居」。これ、実は土台が海中深くに埋め込まれているのではなく地面に置いてあるだけなんですよね(内部に無数に詰め込まれている石の重みで自立しています)。

訪れたときはいい感じに潮が引いていました

続いては「反り橋」。かつては天皇が派遣する勅使が参拝する際に、この反り橋を渡って本殿に入ったことから「勅使橋」とも呼ばれています。

残念ながら実際に渡ることはできません

最後は国内で唯一の海に浮かぶ「能舞台」。平成3年(1991年)の台風で創建以来初めて倒壊してしまいましたが、平成6年(1994年)に再建されました。

一度でいいのでここでお能を観てみたいですね

そして「宮島といえば」で外せないのが島内にたくさんいる鹿たち。この子たちを愛でる目的で宮島・厳島神社を訪れる方も少なくないのではないでしょうか。

シカでした

アクセス

広島県廿日市市宮島町1-1
JR 宮島口駅または広島電鉄 広電宮島口下車
JR西日本宮島フェリーまたは宮島松大汽船で約10分

【源頼朝ゆかりの地】熱田神宮(名古屋市熱田区)

こんにちは、よたろうです。

今回は名古屋市熱田区熱田神宮を紹介します。

データ

www.atsutajingu.or.jp

源頼朝誕生の地

熱田神宮は、創建年が仲哀天皇の治世とも、日本最初の元号である大化とも伝わる神社で、日本武尊ヤマタノオロチを退治した際にその尾の中から発見され、天照大神に献上したと伝わる、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀っています。

ちなみに、主祭神である熱田大神とは「草薙神剣を御霊代としてよせられる天照大神のこと」を指すのだそうです。言い換えれば「草薙神剣を実体とする天照大神」が熱田大神といったところでしょうか。

拝殿はお参りに20分ほど並ぶたいへんな賑わいでした

そんな神代からの歴史を持つ熱田神宮ですが、ずっと時代は下って武士が台頭してくるころになると、熱田神宮の大宮司藤原季範の娘の由良御前が、源氏の棟梁である源義朝に嫁ぎました。この由良御前こそが、後に征夷大将軍となる源頼朝の母ということになります。

熱田神宮の西側を走る伏見通(国道22号線)を挟んだところにある誓願寺には「右大将頼朝公誕生舊地」の碑が建っています。

誓願寺の山門と「右大将頼朝公誕生舊地」の石碑

熱田神宮宮司藤原氏の別邸跡に創建された寺院とのこと

この誓願寺が建っている場所は、元は藤原季範の別邸があったとされており、源義朝の子を身籠った由良御前が久安三年(1147年)に熱田の実家に戻った際に、この別邸で源頼朝を生んだといわれています。今で言うところの「里帰り出産」って感じですかね。

現在の誓願寺はこぢんまりとしたお寺ですが、往時には広い敷地の中に頼朝公の霊社があり、傍らの小池は頼朝公の産湯の池と呼ばれていたそうで、現在も境内には「頼朝公産湯池」の碑が建っています。

誓願寺境内の「頼朝公産湯池」の碑

後に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いた頼朝は、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請するなど、外祖父である藤原季範が大宮司を務めていた熱田神宮を篤く崇敬しました。

また、牛若丸(後の源義経)が奥州藤原氏のもとへ向かう際には時の熱田神宮宮司を烏帽子親として元服したとも伝わっています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にハマったことがキッカケでブログ書きはじめ、全国津々浦々を取材(という名の旅行)をしている私にとって熱田神宮は「始まりの地」と言っても過言ではない聖地の一つといえます。

境内でいただいた「宮きしめん」、美味しゅうございました

アクセス

愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
名古屋市営地下鉄名城線 西高蔵駅から徒歩約5分
名古屋市営地下鉄名城線 神宮西駅から徒歩約10分
駐車場あり

【源平合戦ゆかりの地】平氏方関連史跡(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市に点在する、屋島合戦の平氏方にまつわる史跡を紹介します。

データ

  • 訪問日:令和5年4月22日/23日

安徳天皇の行在所を護る海上拠点に築かれた総門跡

寿永2年(1183年)、平氏安徳天皇を奉じ、屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所としましたが、当時は海だったこの場所に門を構え、海辺の防御、また上陸の拠点としました。

特徴的な四角錐の碑

高松藩主・松平頼重が建てたと伝わる標木

しかし、源氏軍が平氏を急襲すると、たちまち源氏軍が占領するところとなったため、往時の里人は「源氏の総門」と呼んだとのことです。

景清の「錣引き」の伝説

平氏方一の豪傑とされる悪七兵衛景清と、源氏方の美尾屋十郎の壮絶な一騎打ちの伝説で、大薙刀で十郎の太刀を打ち落とし、逃げようとする十郎の兜の錣(しころ)を掴んだ景清……互いに引き合っていましたがついに錣が引き千切れ、十郎は辛くも逃げおおせたといいます。

「錣」についてはこの図をご参照ください

現在は古戦場であったことを示す碑と解説板があるのみ

屋島寺近くの絵看板に描かれた錣引き伝説

十郎が景清の腕力を、景清が十郎の首の強さをお互いに賞賛し合ったと伝わっていますが……錣が千切れたとなると、さすがに十郎の首の強さのほうに軍配が上がるような気がしますよね(笑)

平氏の船団の船だまりである「船かくし」

安徳天皇を奉じて屋島周辺に陣を敷いて勢力を回復しようとした平氏が、小山の陰になり屋島の本営から見えないこの浦を兵船の船だまりとしました。

人気(ひとけ)のない穏やかな砂浜

左手の小山が屋島を隠しています

平教経の小姓・菊王丸の墓

源氏方の佐藤継信が、大将・源義経の身代わりとなって平教経の強弓に倒れたとき、教経に仕えていた菊王丸は継信に駆け寄って首を切り落とそうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟・佐藤忠信の弓によって射殺されました。

思いのほか質素な菊王丸の墓

菊王丸は教経に抱きかかえられて自らの船に帰りましたが、息を引き取りました。そんな菊王丸を憐れんだ教経によって、この地に葬られたと伝わっています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は源氏サイドから描かれた物語であり、かつ、屋島合戦はだいぶ端折られていたので、平氏方についてはほぼ触れられていませんでしたが、こうした史跡の数々に往時の確かな息吹を肌で感じることができる……これこそがフィールドワークの醍醐味ですね。

アクセス

【総門跡】
香川県高松市牟礼町牟礼2424-6
琴電志度八栗駅から徒歩約1分
駐車場なし

【景清の錣引き】
香川県高松市牟礼町牟礼
琴電志度八栗駅から徒歩約11分
駐車場なし(与一公園の無料駐車場利用可)

【船隠し】
香川県高松市庵治町184
ことでんバス 「船かくし」バス停から徒歩約5分
駐車場なし

【菊王丸の墓】
香川県高松市屋島東町
琴電志度八栗駅から徒歩約17分
駐車場なし

【源平合戦ゆかりの地】佐藤継信関連史跡(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市に点在する、佐藤継信にまつわる史跡を紹介します。

データ

  • 訪問日:令和5年4月22日/23日

義経四天王」の一人、佐藤継信

屋島寺近くの絵看板に描かれた佐藤継信

佐藤継信は、治承4年(1180年)に平家打倒のために挙兵した源頼朝のもとに源義経が奥州から駆けつける際、藤原秀衡の命により弟・忠信とともに義経随行した武将で、「義経四天王」の一人に数えられています。
※「四天王」といっても源平盛衰記やその他の古典、さらには伝承によってその顔触れが異なり、「義経四天王」に数えられる人物は10名以上いるようですので、「義経四天王」≒「義経随行した忠臣たち」くらいに捉えていただければと思います。

屋島合戦において弓の名手として知られる平家の武将・平教経がまさに義経を射落とさんとしたそのとき、継信は真っ先に義経を防ごうと進み寄り、身代わりとなって命を落としてしまいました。

屋島合戦の舞台となった香川県高松市内には、この佐藤継信の忠死にまつわる史跡がたくさんあります。

平教経の強弓に倒れた地・射落畠(いおちばた)

昭和60年に源平八百年祭を記念して建立された碑

佐藤継信の墓(牟礼町/屋島

高松市牟礼町にある佐藤継信太夫黒の墓

佐藤継信の墓(彩度を盛り過ぎました)

義経の愛馬・太夫黒の墓

佐藤継信の墓」は2ヶ所あり、牟礼町の墓所内には義経の愛馬・太夫黒の墓もあります。太夫黒は義経後白河法皇から賜り、「鵯越の逆落とし」をやってのけた名馬ですが、継信の供養のために志度寺の覚阿上人に譲られたと伝わっています。

屋島寺へと続く遍路道の道中に建立された墓

屋島東町のほうの墓の敷地内には第二次世界大戦で亡くなった方々の墓も多数ありますが、国のために戦って命を落とした方々を、義経の身代わりとして忠死した佐藤継信になぞらえてその霊を悼んだのではないかと思われます。

佐藤継信菩提寺・洲崎寺

源平合戦ゆかりの地を表した「源平の庭」

このような配置で屋島界隈の古戦場を表しています

義経の身代わりとなって討ち死にした佐藤継信の亡骸は、戦火によって焼け落ちた洲崎寺の本堂の扉に乗せて、源氏の本陣である瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられています。

ちなみに、その源氏の本陣跡は洲崎寺から1kmちょっと離れた所にあります。

現在はこの碑が建っているのみ

佐藤継信大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場しないため、当初は当ブログで取り上げる予定はありませんでしたが、このようにたくさんの史跡が残る屋島合戦の英雄の一人を紹介しないわけにはいきませんよね。

アクセス

【射落畠】
香川県高松市牟礼町牟礼
琴電志度八栗駅から徒歩約2分
駐車場なし

佐藤継信太夫黒の墓】
香川県高松市牟礼町牟礼2395
琴電志度八栗駅から徒歩約2分
駐車場なし

佐藤継信の墓】
香川県高松市屋島東町400
琴電志度八栗駅から徒歩約30分
駐車場なし

【洲崎寺】
香川県高松市牟礼町牟礼2691
琴電志度八栗駅から徒歩約6分
駐車場あり

【瓜生ヶ丘源氏本陣跡】
香川県高松市牟礼町牟礼854-7
琴電志度八栗駅から徒歩約10分
駐車場なし

【源平合戦ゆかりの地】祈り岩/駒立岩(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市にある、祈り岩と駒立岩を紹介します。

データ

  • 名称:祈り岩/駒立岩
  • 訪問日:令和5年4月22日

www.city.takamatsu.kagawa.jp

www.city.takamatsu.kagawa.jp

源平合戦の英雄・那須与一ゆかりの岩

当ブログは「鎌倉殿の13人ゆかりの地をめぐる」というコンセプトで運営しており、本来であれば大河ドラマに登場しなかった那須与一を紹介する予定はありませんでしたが、屋島界隈をめぐる上で「扇の的」で有名な那須与一は避けて通れない……ということで、番外編的に那須与一ゆかりの地を紹介します。

屋島山上観光駐車場~屋島寺間にある那須与一の看板

まずは、平家物語の「扇の的」のエピソードを簡単に紹介しましょう。

屋島合戦に敗れて海上に逃げた平家方が、船の上で棒の先に扇を立て、源氏方に対して弓で射てみせよと挑発します。当たらなければもちろん、無視しても「源氏は逃げた」と、いずれにしても嘲笑してやろうという平家の作戦です。

源氏の総大将・源義経は弓の名手である那須与一に扇を射落とすよう命じます。外せば自害は免れない中、与一は神仏に願をかけて矢を放ち、見事に扇を射抜いてみせました。

源平両軍から喝采の声があがり、あまりの見事さに平家方の一人の武者が舞いを舞ったところ、義経は与一に命じてその武者を射殺した……というものですね。

この扇の的を射るときに那須与一が「南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の新明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったのが、この祈り岩の辺りだといわれています。

民家の駐車場の一画にさりげなく佇む祈り岩

詳細は拡大してご覧ください

このすぐそばを流れる川の中にも「祈り岩」がありますが、こちらはレプリカなんだそうです。

干潮時で水はだいぶ引いていました

そしてこのレプリカの祈り岩から20~30mほど先には「駒立岩」があります。源平合戦の頃はこの辺りは海だったそうですが、那須与一が扇の的を射抜く際にこの巨石に馬を止めて足場を定めたとされています。

潮が引くと姿を現す駒立岩(with鳩)

詳しくはこちらを拡大してご覧ください(2回目)

ちなみに、この駒立岩から70~80mほどの辺りに扇の的の絵看板がありますが、実際の距離感的にはこれくらいだったのでしょうか。

この写真の左奥のほうをよく見ると……

こんな絵看板が掲げられています

源平合戦のことは詳しく知らなくても「那須与一」「扇の的」というワードを聞いたことはある……という方は少なくないと思います(私も「鎌倉殿の13人」を見るまではそうでした)が、実際にゆかりの地を訪れてみると源平合戦の、そして地元の英雄であることがよく分かりますよ。

マンホールの蓋には「与一くん」

アクセス

【祈り岩】
香川県高松市牟礼町牟礼2765-1
琴電志度八栗駅から徒歩約12分
駐車場なし(近隣に与一公園の駐車場あり※無料)

【駒立岩】
香川県高松市牟礼町牟礼
琴電志度八栗駅から徒歩約13分
駐車場なし(近隣に与一公園の駐車場あり※無料)

【源義経ゆかりの地】義経の弓流し(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市にある、義経の弓流しを紹介します。

データ

  • 名称:義経の弓流し
  • 訪問日:令和5年4月22日/23日

義経が海中での戦いで落とした弓を拾い上げた伝説

平家物語の「弓流(ゆみながし)」に描かれた、「義経弓流し」や「義経の弱き弓」などとして知られる有名なエピソードがあります。

源氏軍を率いる源義経は、勝ちに乗じて馬の下腹が浸かるほど海中に打ちいって戦ううちに弓を海に落としてしまいます。すぐそこに平家の兵がいるため部下たちは「弓はお捨てください」と止めるも、義経は忠告を無視して危険を顧みずに弓を拾いあげます。

「弓流し図屏風」に描かれた、弓を拾う源義経

※この屏風図は「源平合戦の主な登場人物の看板」の一部として屋島寺の近くに掲示されています。

kamakura13.hatenablog.com

陣へ帰還後、部下たちは口々に「命に代えることはできません、どうかあんな危険なことはやめてください」と義経の行動を非難しますが、義経は「総大将の弓がこんな貧弱なものだと分かれば敵に笑われるのが悔しいから命懸けで拾ったのだ」と答えました。

部下たちは義経の深い考えを知り、感じ入った……とされていますが、この「弓流し」の碑が相引川を挟んだ東西の両岸にあります。

位置関係はこんな感じです

まずは東岸側にある「義経の弓流しの跡」。気を付けていないと見落としてしまうほどひっそりと建っています。

民家の脇にひっそりと佇む「義経弓流シ」の石碑

さらにひっそりと民家の壁沿いに佇む解説板

そして西岸側は溜池の淵に金属製の解説板があります。

東岸の石碑からは歩いて5分ほど

東西どちらも書いてある内容はほぼ同じですが、なぜ東西両岸の二か所に解説板が設置されているのかは分かりませんでした。

ちなみに、上掲の位置関係を示した地図で、東岸側の「義経の弓流しの跡」のすぐ上に「おうどん 瀬戸晴れ」との表記がありますが……この瀬戸晴れさんのうどんがとても美味しかったんですよ。

開店前から行列ができる人気店です

強いコシではなく、もっちりとした柔らかめの麺

こういうその土地の美味しいものをいただくのも、取材を兼ねた旅行(旅行を兼ねた取材かな?)の醍醐味です。

アクセス

【東岸側】
香川県高松市牟礼町牟礼2534
琴電志度八栗駅から徒歩約5分
駐車場なし

【西岸側】
香川県高松市屋島屋島東町1130-4
琴電志度八栗駅から徒歩約10分
駐車場なし