すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【武蔵坊弁慶ゆかりの地】武蔵坊弁慶関連史跡(松江市)

こんにちは、よたろうです。

今回は島根県松江市に点在する、武蔵坊弁慶にまつわる史跡を紹介します。

データ

  • 訪問日:令和7年9月16日

https://www.city.matsue.lg.jp/material/files/group/32/36725373.pdf (PDF)

弁慶島

島根県鳥取県にまたがる湖・中海の北岸あたりに弁慶島という湖内島があります。

標高が30mほどある小高い小島

かつては亀の姿に似ていることから「亀島」とも呼ばれていたこの島は、6歳の頃の弁慶が、子どもとは思えぬ怪力で暴れ回って周囲に迷惑をかけたことから、弁慶の母が弁慶をこの島に置き去りにしたといわれています。

 

弁慶はここで父と名乗る天狗と出会いって剣術や学問を学んだ後、泳ぎが不得手であったため砂や小石を運んで岸まで道を作り、帰りを待つ母のもとへと戻ったとされています。

弁慶握り茅伝承地

砂や小石を運んで岸までの道を作って亀島を脱出した弁慶は、最後に岸辺の茅を握って陸地へと渡りました。

 

その際に弁慶が握った茅は「弁慶の握り茅」と伝えられていますが、握った茅で手を切った弁慶の血で、今も茅の切り口は赤いといわれています。

生い茂る夏草を分け入った先には……

今ではこの解説板があるのみ

弁慶ぼたもち岩

弁慶が近くの枕木山で修行中、大山に向かって投げた大岩がこの地の海岸に落ちたと伝えられていて、その大岩は「ぼたもち岩」と呼ばれ現在では9個が残ってるそうです(うち1個は歩道下に埋没)。

先端だけ見えるものを含めても5つしか見えず

このように様々な弁慶伝説が残る松江市の本城地区は、弁慶生誕の地と言われています。これらの史跡のある国道431号線沿いにある道の駅には「弁慶の里」という看板が掲げられていました。

劇画調のシュッとした弁慶

道の駅の敷地内には「超えた坂」という弁慶(幼名・弁太)と母(弁吉)の可愛らしい石像があります。

弁慶の怪力にビックリする母の図

これらの史跡は美保神社から松江市内に向かう道中、偶然に「弁慶握り茅」の看板(本記事2枚目の写真)を見かけたことで出会うことができましたが、松江が弁慶生誕の地とは露も知りませんでしたよ。

 

今回の訪問では時間が無くて訪れることができませんでしたが、まだ他にも弁慶や母・弁吉にまつわる史跡が色々とあるようなので、また島根を訪れる機会があったら寄ってみたいと思います。

まだまだ見どころがたくさんありそうです

アクセス

島根県松江市野原町
各史跡とも 一畑バス 「道の駅本庄」バス停から徒歩約15分圏内
※位置関係は上掲の絵地図の写真をご参照ください

【武蔵坊弁慶ゆかりの地】鰐淵寺(出雲市)

こんにちは、よたろうです。

今回は島根県出雲市の鰐淵寺(がくえんじ)を紹介します。

データ

izumo-kankou.gr.jp

若き日の武蔵坊弁慶の修行の地

鰐淵寺は出雲市にある天台宗の寺院で、推古天皇2年(594年)に開山である智春上人がこの地の浮浪の滝で推古天皇の眼病の平癒を祈願したことから、推古天皇勅願寺として建立されたと伝わる古刹です。

本尊が祀られている現在の根本堂は18世紀の建立

寺号の「鰐淵寺」は、智春上人が修行中に誤って滝壺に落としてしまった仏器を、鰐(現在でいうワニザメ)が鰓(えら)に引っ掛けて浮かび上がってきたことに由来していると伝わっているのだそうです。

突然の雷雨に見舞われ、浮浪の滝へ行くのは断念……

この鰐淵寺は山深いロケーションで、駐車場に車を停めてからたっぷりと20分ほど歩くことになりますので、歩きやすい服装と靴で参拝されることを強くお勧めします。

なかなかに骨のある参道(山道)

私が訪れた日は、駐車場に車を停める前後から遠雷が轟きはじめ、山道を歩いているときに激しい雨が降り出すという最悪のコンディションで難儀しました。。。

 

そんな山深く人里離れた鰐淵寺は、若き日の武蔵坊弁慶が修行をした地と言われています。

 

仁平元年(1151年)に松江で生まれたとされる武蔵坊弁慶は、18歳からの3年間をこの鰐淵寺で修行して過ごし、その後に比叡山に移ったと伝わっています。

駐車場の絵地図には力強い弁慶の姿が描かれています

鰐淵寺に至る山道にも弁慶を紹介する絵看板が

武蔵坊弁慶といえば、大きな石を持ち上げたり投げ飛ばしたりという数々の怪力の伝説がありますが、この鰐淵寺にも鐘楼の釣鐘は弁慶が鳥取の大山寺から一夜にして運んだものである……との言い伝えがあります。

釣鐘が無くても、一夜では到底無理そうです

ちなみに、この釣鐘の伝説は弁慶が源義経に従軍して壇ノ浦の戦い(1185年)で平家を滅ぼした後に再びこの鰐淵寺に身を寄せていた頃、つまり、義経が鎌倉への凱旋を許されずに京へ追い返されてから、奥州藤原氏のもとへ逃れて衣川の戦い(1189年)で命を落とすまでの間の出来事とされています。

 

武蔵坊弁慶はその出自や業績、最期に関する確たる史料のないミステリアスな人物であり、いつ・どこに居たかについては全国各地に諸説がありますが、全国各地に様々な伝承がある=誰からも愛されるキャラクターであるという証左ともいえますよね。日本人は、とかく義経と弁慶のような深い絆で結ばれた主従関係が大好きですから。

アクセス

島根県出雲市別所町148
出雲市バス 「鰐淵寺駐車場」バス停から徒歩約15分
駐車場あり

【梶原景時ゆかりの地】梶原一族関連史跡(静岡市清水区/駿河区)

こんにちは、よたろうです。

今回は静岡県静岡市清水区駿河区に点在する、梶原一族にまつわる史跡を紹介します。

データ

  • 訪問日:令和6年9月20日

矢射タム橋

静岡市葵区瀬名川の住宅街のマンションの片隅に、「矢射タム橋」の石碑があります。

マンションの片隅にひっそりと佇む石碑

正治2年(1200年)に鎌倉を追われた梶原景時とその一族郎党は上洛を目指してこの地に差し掛かった際、鎌倉幕府の指令で一行を阻止しようとした地元の豪族たちと戦になります。

 

「矢射タム橋」の由来は、この戦で景時一行と地元の豪族たちがこの辺りで矢を射あったという伝承によるものなのだそうです。

長尾川と巴川に架かるこの橋のことでしょうかね?

曲金観音堂

静岡市駿河区曲金の旧東海道の一角に曲金観音堂があります。

商店街の片隅にひっそりと佇むお堂

この辺りも梶原景時一行と地元の豪族たちとの戦の古戦場で、戦死者たちの供養と、長年にわたる有縁無縁の不成仏霊に対する慰霊供養とを併せて、古戦場に相応しい十一面観世音菩薩を勧請し、観音堂を建立したものなのだそうです。

残念ながら由来書きから建立年は読み取れず

馬頭観音

静岡市駿河区の西豊田小学校の裏手には、梶原景時とその一行の愛馬を供養する馬頭観音があります。

小学校の裏手にひっそりと佇むお堂

梶原景時は地元の豪族たちとの戦で敵矢に倒れた愛馬「磨墨(するすみ)」をはじめとした一族郎党の愛馬たちを手厚くに葬るように村人に頼み、景時一行が全滅した後に村人たちは堂塔を建てて供養し、また諸願を叶えてくださる「願かけ馬頭観音」として近隣の信仰をあつめたと伝わっています。

こちらも建立年の記述はありませんでした

清見関で開戦し、当地での戦で壊滅的なダメージを受け、梶原山で嫡男・二男とともに自害して果てた梶原景時静岡市内には一行が決死の戦いをした古戦場跡がいくつも点在していますので、往時に思いを馳せて慰霊の巡礼をしてみてはいかがでしょうか。

アクセス

【矢射タム橋】
静岡県静岡市葵区瀬名川2-2-35
JR東海道本線 草薙駅から徒歩約25分
駐車場なし

【曲金観音堂
静岡県静岡市駿河区曲金1-5-35
静岡鉄道静岡清水線 春日町駅から徒歩約10分
駐車場なし

馬頭観音
静岡県静岡市駿河区曲金2-8-69
静岡鉄道静岡清水線 春日町駅から徒歩約15分
駐車場なし

【梶原景時ゆかりの地】清見寺(静岡市清水区)

こんにちは、よたろうです。

今回は静岡県静岡市清水区清見寺(せいけんじ)を紹介します。

データ

  • 名称:巨鼇山 求王院 清見興国禅寺
  • 宗派:臨済宗妙心寺派
  • 本尊:釈迦如来
  • 拝観料:300円(中高生200円、小学生100円)
  • 訪問日:令和6年9月20日

seikenji.com

梶原一族の血痕が染みついた「血天井

清見寺は正式名称を清見興国禅寺といい、約1300年ほど前の白鳳年間(7世紀の半ば~後半くらい)に蝦夷の備えで地に設けられた「清見関」の傍らに関所の鎮護として建立された仏堂が始まりとされています。

「東海名區」の扁額がかかる総門

天保13年(1842年)に再建された仏殿

歴史的には慶長12年(1607年)に江戸時代はじめての朝鮮使節団が派遣された際の宿泊地となったことで知られており、境内全体が「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定されています。

 

「鎌倉殿の13人ゆかりの地」としては、元和2年(1616年)に徳川家康の三女・正清院の寄進によって建築された大方丈の大玄関の「血天井」が有名です。

外から見た大方丈の大玄関

この大玄関の内部の天井が「血天井

この血天井は、清見寺の門前が関所であった頃に、源頼朝亡き後の鎌倉幕府を追放された梶原景時とその一族郎党が正治2年(1200年)にこの地の豪族らと交戦した際の血痕の付いた床板・縁板の古材を天井板として使用されたものと伝わっています。

 

これは、徳川家康江戸幕府を起こした際に、正清院が「戦乱の世を繰り返さないように」との供養のためであるとされていますが……ちょっと不気味ですよね(笑)

なかなかに味わい深い血天井の由緒書き

その他にも、徳川家康が今川氏の人質時代にこの清見寺の住職に師事して勉強をしたという「徳川家康公手習いの間」や、東京遷都で明治天皇が京都から東京へ向かう道中の休息地となった際の「玉座」等があり、見どころが満載です。

葵の紋と御簾のある、やんごとなき玉座

コストパフォーマンス云々を口にするのは野暮というものですが、拝観料300円で大方丈内や庭園をのんびりと回遊できるのはとてもお得なのではないかと思いますよ。

庭園には島崎藤村の小説にも登場する五百羅漢像も

アクセス

静岡県静岡市清水区興津清見寺町418-1
しずてつジャストラインバス 「清見寺前」バス停から徒歩約1分
駐車場あり

【梶原景時ゆかりの地】梶原山(静岡市葵区)

こんにちは、よたろうです。

今回は静岡県静岡市葵区にある、梶原山(かじわらやま)を紹介します。

データ

  • 訪問日:令和6年9月20日

www.visit-shizuoka.com

梶原景時が自害した「最期の地」

梶原山は静岡市葵区清水区にまたがる標高300メートルほどの小高い山で、鎌倉幕府重臣であった梶原景時の終焉の地と伝わっています。

山頂にある「梶原景時終焉之地」の石碑

家臣として源頼朝に重用され、鎌倉幕府で権勢をふるった梶原景時は、頼朝の死後は北条氏や他の有力御家人たちと対立して鎌倉を追放されると、捲土重来を期すべく一族郎党を率いて西国へと向かいます。

 

しかし、駿河地方にはすでに景時脱出の触れが出回っていて、一行が清見関にさしかかったとき、地元の豪族たちと激しい合戦になりましたが、景時の一族郎党33人は次第に討ち取られ、剛の者として知られた景時の三男・梶原景茂も命を落としてしまいます。

 

苦戦の様子を目の当たりにした景時の嫡男・梶原景季は父に向かい「もはや、かない候まじき、敵の名もなき下郎の手にかからんより、速やかに御自害あるべし」と進言し、景時は覚悟を決めて景季・二男の梶原景高と3人で自害して果てました。

梶原景時親子供養塔

これらの碑のある山頂へ向かう駐車場を少し下ったところには岩間から清水が湧き出していて、この水で自害の前に髪を整えたとされており、「鬢水」と呼ばれています。

「鬢水」へと下りていくアプローチ

昔はこの辺りに水が湧き出していたようですね

「鬢水」の解説板。拡大したら読めますかね?

現在の梶原山の山頂は梶原山公園として整備され、山頂に至る道程は駿河湾の眺望を楽しめるハイキングコースになっており、お天気のいい日には遠く伊豆半島まで望むことができます。

駿河湾を望む絶景

この日は富士山もクッキリと見えました

この絶景を景時親子はどんな思いで眺めていたのでしょうかね。。。

 

ちなみに、夜には市街地の街明かりが煌めく夜景が美しく、「日本夜景遺産」に認定されているのだそうです。

yakei-isan.jp

なお、梶原山を訪れるには車を利用することになると思いますが、駐車場から山頂へと向かう道中にはクマの目撃情報を知らせる貼り紙がありました。

道中はどうかご安全に

私が訪れたのは日中だったので視界も開けていて安心・安全でしたが、おそらく夜の山道は真っ暗で足元でさえもほぼ見えなくなると思われますので、不測の事態に備えて諸々準備を怠りなく訪れるようにしてくださいね。

アクセス

静岡県静岡市葵区長尾1134-102
しずてつジャストラインバス 「矢崎」バス停から徒歩約1時間25分
駐車場あり

【梶原景時ゆかりの地】梶原堂(静岡市清水区)

こんにちは、よたろうです。

今回は静岡県静岡市清水区にある、梶原堂(かじわらどう)を紹介します。

データ

  • 訪問日:令和6年9月20日

梶原景時とその一族を祀るために建立された寺院跡

梶原堂は、もとは梶原景時を本尊とした「梶原山龍泉院」という寺院で、梶原景時とその一族がこの地で戦い全滅した正治2年(1200年)から160年の時代を下った延文5年(1360年)に建立されました。

閑静な住宅街にひっそりと佇むお堂

お堂の前には封印されし仮設トイレ?が鎮座

龍泉院は梶原景時から数えて八代の孫・梶原景慶によって矢崎山の山腹に建てられましたが、それから600余年を経た江戸時代の後期・文政5年(1822年)に火災で全焼してしまいます。

 

その後再興され、何回かの復元によって原型を保ってきましたが、昭和37年(1962年)に開発によって矢崎山が根元から削り取られるにあたり、現在の場所に境内を造成して、山腹にあったお堂を移築してきたのだそうです。

 

敷地内にある毘沙門堂という鉄筋のお堂には、先述の火災の難を逃れた梶原景時源頼朝の二つの位牌と如意輪観音像、毘沙門天像が収められています。

※内部を覗くと収蔵されている仏像やお位牌が見えますが、どこに許可を得てよいかが不明のため、写真の撮影およびブログへの掲載は見送りました。

錠前で固く閉ざされた毘沙門堂

そして、この毘沙門堂の脇には梶原景時、景季(景時の長男)、景高(景時の二男)の墓があります。

右の五輪塔は墓ではなく供養塔とのこと

明治4年1871年)の寺社検地によって龍泉院は廃寺となりましたが、地元の信徒によって「梶原堂」として大切に遺され、今でも毎年3月3日には祭典が行われているのだそうです。

 

源頼朝に重用されて要職に就いていた鎌倉幕府を追われ、上方へ落ち延びて捲土重来を目論むもこの地で非業の最期を遂げた梶原景時。頼朝の死後は数々の讒言で鎌倉では敵の多かった景時でしたが、この辺りに点在する関連史跡を巡ってみると、現在に至ってもこの地の方々に愛されて続けていることがよく分かります。

 

こうした空気感に触れられることこそ、ゆかりの地めぐり(格好よく言うと「フィールドワーク」「現地取材」)の醍醐味ですね。

本記事はほぼ現地の解説板の要約です(笑)

アクセス

静岡県静岡市清水区大内841-64
しずてつジャストラインバス 「矢崎」バス停から徒歩約5分
駐車場なし

【梶原景時ゆかりの地】高源寺(静岡市清水区)

こんにちは、よたろうです。

今回は静岡県静岡市清水区の高源寺(こうげんじ)を紹介します。

データ

  • 名称:廣徳山 高源寺
  • 宗派:臨済宗 妙心寺
  • 本尊:十一面観世音菩薩
  • 拝観料:志納
  • 訪問日:令和6年9月20日

kougenji.la.coocan.jp

鎌倉を追われた梶原一族の供養碑のある寺院

高源寺は鎌倉時代の創建とされ、鎌倉幕府第二弾将軍・源頼家の忌諱に触れて鎌倉を追放された梶原景時とその一族郎党の供養碑があります。

葬儀が営まれていてあまり長居はできませんでした

武田信玄によってこの地に移されたという本堂

梶原景時源頼朝の信任が厚く、鎌倉幕府の創設にも大きな役割を果たした武将でしたが、頼朝死後の正治2年(1200年)に三浦義村和田義盛御家人66名の連判状によって排斥され、鎌倉を追放されました。

 

景時とその一族郎党は再起を期して西国の所領を目指しますが、その道中で駿河の豪族たちと戦になり、多勢に無勢で一族郎党は壮絶な最期を遂げ、景時も付近の山上で自害してしまいます。

 

高源寺には梶原景時一族の供養碑がありますが、この碑は一族郎党33名がさらし首にされた街道筋に建てられ、後に高源寺に移されたのだそうです。

右側が供養碑、左側は愛馬に跨る景時のレリーフ

また、この高源寺から歩いて5分ほどのところある個人宅の一角には、梶原景時一党の供養塔があります。

高源寺さんに車を停めて歩いていきました

ここは豪族たちとの戦に敗れ、路傍に転がる一族の遺体を不憫に思った地元の方々が自宅庭に埋め、800余年を経た今日も命日供養を続けているのだそうです。

 

家の方にご挨拶をして供養塔をお参りしたい旨を伝えたところ、快く供養塔へ通していただき、近隣の梶原景時ゆかりの地めぐりのリーフレットを頂戴しました。

 

個人のお宅ですので、こちらを訪れる際は無断で立ち入ったり騒いだりは絶対にせず、礼節をわきまえてお参りをしていただくよう、お願いいたします。

アクセス

【高源寺】

静岡県静岡市清水区高橋2-7-4
しずてつジャストラインバス 「清水警察署前」から徒歩約11分
駐車場あり

梶原景時一党の供養塔】

静岡県静岡市清水区高橋5-4-9
しずてつジャストラインバス 「清水警察署前」から徒歩約7分
駐車場なし