こんにちは、よたろうです。
今回は高松市にある、菜切地蔵を紹介します。
データ
- 名称:菜切地蔵
- 訪問日:令和5年4月22日
弁慶がその背中で調理をしたと伝わる石地蔵
菜切地蔵は、第12代景行天皇の皇子である神櫛王墓(かみくしのみこのはか)の南の丘の上にある地蔵堂に安置されている石彫の地蔵菩薩です。
源平合戦(屋島の戦い)の際、ここから南西に500mほど離れた辺りに源氏方の本陣がありましたが、弁慶が兵たちのために炊事をするにあたってまな板が無かったため、この地蔵の背中をまな板代わりにして、大長刀で野菜を切ったと伝わっているそうです。
このとき作った汁物を主君・源義経に差し上げたところ、義経が「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と発句を詠むと、弁慶はすかさず「それを知りつつ九郎判官」とこれに答えた……と、江戸末期に刊行された「全讃史」には記されています。
実際にこの目で確認することはできませんでしたが、この石地蔵の背中には弁慶が大長刀で野菜を切った際の刀傷があるともいわれているそうです。
なお、2枚目の写真のように地蔵堂の中には石彫地蔵の左隣には石彫の十一面観音、右隣には五輪塔のような石塔がありますが……土地の人々はこの右側の石塔のことを「地蔵」と呼んでおり、弁慶がまな板代わりにしたのは実はこの石塔のようです。
それはそうですよね、さすがにお地蔵さんをうつ伏せに寝かせて背中で大長刀で調理したとは、なんだか罰当たりな気がしていましたよ。
まぁ、お地蔵さんが石塔であったとしても、あまりにもダイナミックというか、「男の料理」にもほどがあることに変わりはありませんけどね(笑)
ちなみに、周辺には「菜切神社」や「菜切公民館」があるなど、今もこの一帯は集落名を「菜切」と称しているなど、菜切地蔵は地元の象徴的な史跡です。