こんにちは、よたろうです。
今回は鎌倉市にある、法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)を紹介します。
データ
初代鎌倉殿と二代執権の墳墓堂跡
建久9年(1198年)、相模川に架かる橋の落成供養の帰途の落馬によって翌年に命を落とした源頼朝。その落馬の原因は源義経や源行家らの亡霊に驚いたとも、糖尿病等の病気を患ったことによるものとも伝わっているようです。
その源頼朝の墓とされる石塔が、かつての大倉御所の裏手にある小高い丘の中腹にあります。
ここは頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所であると推定されているようですが、今から10年前の平成24年(2012年)、実はこの源頼朝の墓とされる石塔が心無い人物によって一部が破壊されるという痛ましい事件がありました。
同年中に修復されたものの、よく見ると今もクッキリと修復の跡が見えます。神奈川県の、いや、日本の宝とも言うべき遺跡に手をかけるような狼藉者が今後二度と現れないことを祈らずにはいられません。。。
さらに、ここから50mほど離れた別の階段を登った先の高台は、北条義時の法華堂であったことが平成17年(2005年)の発掘調査で分かったそうです。
この北条義時の法華堂跡はスマートフォンアプリ「AR北条義時法華堂」で、実寸大に再現された法華堂の外観や内部の復元CGを見ることができますので、興味のある方はアプリをダウンロードしてお楽しみください。
ちなみに、源頼朝の法華堂跡は標高約25.5m、隣地の北条義時の法華堂跡は23.5mであり、この2mの差が両者の主従関係を示していると考えられており、合わせて1つの国指定史跡になっています。
800年以上の時を経た今日のみならず、未来永劫に渡って北条義時は「鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男」として源頼朝と並び称されていくのでしょうね。