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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【平清盛ゆかりの地】平清盛の終焉推定地(京都市下京区)

こんにちは、よたろうです。

今回は京都市下京区にある、平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)を紹介します。

データ

日本初の武家政権を樹立した平氏棟梁の終焉地

京都駅の八条口から八条通りを鴨川方面へ進み、河原町通りを超えた辺りにある団地の一角に「平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)」の碑があります。

「崇仁市営住宅」の一角にひっそりと佇んでいます

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、松平健さん演じる平清盛が、小泉孝太郎さん演じる息子の平宗盛に「頼朝を殺せ!わしの墓前に、あやつの首を供えるのだ!」と言い残してこの世を去るシーンがありましたが、その最期の地がこの辺りと考えられているそうです。

中央より左下、鴨川沿いの赤いマークが現在地

吾妻鏡にはもう少し具体的に終焉の地について言及されており、それによると「九条河原口の平盛国邸」だということですが、平盛国は清盛に仕えたの側近で、壇ノ浦の戦いの後には平宗盛とともに鎌倉に送られて岡崎義実に身柄を預けられ、餓死によって自害をしたと伝えられる人物です。

平盛国邸は、永暦2年(1161年)に後白河上皇の第七皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)が生まれた地でもあり、後白河上皇の継室である平時子の異母姉妹である女御・平慈子が憲仁親王の生母であることから、平清盛天皇外戚となるきっかけを得た地であるともいえます。

その後、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に嫁がせ、徳子が安徳天皇を生んだことで目論見どおりに天皇外戚となり、絶大な権力をその掌中に収めることとなります。名目上は高倉天皇院政でしたが、その実態は平氏の傀儡政権だったんですね。

高倉天皇(上)と平清盛(下)の肖像

平清盛の死が治承5年(1181年)で、壇ノ浦の戦いに敗れて平氏が滅亡するのが元暦2年(1185年)……清盛が病に倒れてから僅か4年で平氏一門にとっては「天国から地獄」となりますが、絶対的なカリスマの跡目を継ぐことの難しさを後に源氏も味わうことになるのは、何とも皮肉な運命ですよねぇ。

アクセス

京都府京都市下京区屋形町7
各線 京都駅から徒歩約10分
駐車場なし