こんにちは、よたろうです。
今回は香川県木田郡三木町にある、静薬師を紹介します。
データ
- 名称:静薬師
- 訪問日:令和5年4月22日
鎌倉を追われ讃岐国に帰った静御前が結んだ草庵
静薬師は、静御前が源義経の菩提を弔った庵であると言い伝えられており、境内には静御前の墓とされる石塔があります。
源義経の愛妾・静御前は、文治2年(1186年)に鎌倉の鶴岡八幡宮で「しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな」と義経を慕う歌を唄って源頼朝を激怒させた後、出産した義経の子が男児であったために殺されてしまい、傷心のうちに母である磯禅師とともに京へ帰されたとされています。
その後、文治4年(1188年)に母の故郷である讃岐国へと帰ってきた静御前は長尾寺で髪を下ろし、母は磯禅尼(いそのぜんに)、静は宥心尼(ゆうしんに)と名乗り、母の縁者がいたこの地にささやかな草庵を結んだとされていますが、それがこの静薬師庵です。
やがて、静御前の侍女であった琴路(ことじ)も訪ねてきて、義経とその子、家来たちの冥福を祈る日々を送っていましたが、翌文治5年(1189年)に磯禅尼が亡くなり、静も建久3年(1192年)に病によって24歳の若さでこの世を去りました。
そして、静御前が亡くなって7日目の夜、侍女の琴路も後を追うように鍛冶池に身を投げて命を絶ったといいます。
静御前は「源義経との恋仲を引き裂かれた悲劇のヒロイン」と紹介されることが多いですが、歴史の表舞台から姿を消したその後の人生も悲劇的だったのですね。。。
ちなみに、文治元年(1185年)の屋島合戦の際に源義経が僅か150騎という少数精鋭による電撃作戦に成功したのは、静御前の地縁・血縁による支援があったためだとも考えられているそうです。
源平合戦を源氏方の勝利に導いた英雄である源義経、献身的にそのサポートをした静御前が、鎌倉から追われる立場になってしまったことは、「運命の悪戯」と呼ぶにはあまりにも残酷な運命であったと言わざるを得ません。