すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【静御前ゆかりの地】長尾寺/鼓渕(さぬき市)

こんにちは、よたろうです。

今回はさぬき市の長尾寺と鼓渕を紹介します。

データ

長尾寺

  • 名称:補陀洛山 長尾寺
  • 宗派:天台宗
  • 本尊:聖観世音菩薩
  • 拝観料:志納
  • 訪問日:令和5年4月22日

nagaoji.com

【鼓渕】

  • 名称:鼓渕
  • 訪問日:令和5年4月22日

静御前の髪を納めた「剃髪塚」がある古刹

長尾寺は、天平11年(739年)に行基菩薩が楊柳(ようりゅう=柳の木)に霊感を得て聖観世音菩薩像を刻んで本尊とし、堂宇を建立して安置したのがはじまりとされている古刹で、四国八十八箇所霊場の第八十七番札所として知られています。

大泉洋さんはこの本堂の前でポーズを決めました

源義経との間にもうけた男児を殺され、失意のうちに鎌倉を追われて京に帰さた後、母・磯禅師の故郷である讃岐国へと帰ってきた静御前は、母とともに寺社巡りの信仰の旅に出ます。

文治4年(1188年)に長尾寺に辿り着いた母娘は住職の宥意(ゆうい)和尚から「いろはうた」などにより世の無常さを諭され、ここで得度(僧侶になるための出家の儀式)をしたといわれています。

二人は出家し、静は宥意和尚の一字をもらい「宥心尼(ゆうしんに)」、母は「磯禅尼(いそのぜんに)」となり、長尾寺の境内にはその際に落とした静御前の髪が納められたという剃髪塚があります。

静御前の髪が納められたという剃髪塚

境内から一段高い基壇の興亜地蔵尊の脇にあります

なお、一枚目の写真の本堂の左脇陣には静御前の位牌が安置されていますが、納経所で御朱印をいただく際にお坊さんに伺ったところ、外からは見えない位置にあるとのことで、残念ながら目にすることはできませんでした。

俗世を断ち切るために義経形見の鼓を投げ捨てた泉

長尾寺から徒歩5分ほどの住宅街の一角には「鼓渕」という史跡があります。

鼓渕の石碑

鼓渕のすぐそばを琴電が走っています(鉄分補給)

この辺りはかつて清水の湧き出る泉で、長尾寺で得度した静御前は、俗世を断ち切る証として源義経から形見にと贈られた鼓を投げ捨てたと伝わっています。

この鼓は、重源僧正が唐から持ち帰って天皇に献上し、後に後白河法皇から平清盛に下賜されたという平家の家宝で、紫檀の胴、金銀の象眼に三毛猫の皮を張った、音色の優れた名器であったとのことですが、屋島合戦の際に波間に漂っていたところを伊勢三郎が見つけて義経に差し出したという経緯をもっていたそうです。

さぬき市に隣接する三木町には静御前の墓がありますが、静御前の墓や終焉の地の伝説は北は北海道から南は福岡県に至り、全国に数多く存在しています。歴史的な悲劇のヒロインである静御前に対する「何とか生き延びていてほしい」という思いが、様々な伝説を生んでいるのでしょうね。

kamakura13.hatenablog.com

アクセス

長尾寺
香川県さぬき市長尾西653
高松琴平電鉄 長尾駅から徒歩約3分
駐車場あり(納経所で200円を納めてください)

長尾寺
香川県さぬき市昭和3525
高松琴平電鉄 長尾駅から徒歩約3分
駐車場なし

【静御前ゆかりの地】静薬師(木田郡三木町)

こんにちは、よたろうです。

今回は香川県木田郡三木町にある、静薬師を紹介します。

データ

  • 名称:静薬師
  • 訪問日:令和5年4月22日

鎌倉を追われ讃岐国に帰った静御前が結んだ草庵

静薬師は、静御前源義経の菩提を弔った庵であると言い伝えられており、境内には静御前の墓とされる石塔があります。

こぢんまりとした草庵

「静」の字のクセが強い薬師堂の扁額

源義経の愛妾・静御前は、文治2年(1186年)に鎌倉の鶴岡八幡宮で「しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな」と義経を慕う歌を唄って源頼朝を激怒させた後、出産した義経の子が男児であったために殺されてしまい、傷心のうちに母である磯禅師とともに京へ帰されたとされています。

その後、文治4年(1188年)に母の故郷である讃岐国へと帰ってきた静御前長尾寺で髪を下ろし、母は磯禅尼(いそのぜんに)、静は宥心尼(ゆうしんに)と名乗り、母の縁者がいたこの地にささやかな草庵を結んだとされていますが、それがこの静薬師庵です。

やがて、静御前の侍女であった琴路(ことじ)も訪ねてきて、義経とその子、家来たちの冥福を祈る日々を送っていましたが、翌文治5年(1189年)に磯禅尼が亡くなり、静も建久3年(1192年)に病によって24歳の若さでこの世を去りました。

薬師堂のすぐ左手にある静御前の墓

約3km離れた場所にある磯禅尼の墓(さぬき市)

そして、静御前が亡くなって7日目の夜、侍女の琴路も後を追うように鍛冶池に身を投げて命を絶ったといいます。

静薬師のすぐ裏手にあるため池・鍛冶池

静御前やその子の墓と並んで琴路の墓もあります

静御前は「源義経との恋仲を引き裂かれた悲劇のヒロイン」と紹介されることが多いですが、歴史の表舞台から姿を消したその後の人生も悲劇的だったのですね。。。

ちなみに、文治元年(1185年)の屋島合戦の際に源義経が僅か150騎という少数精鋭による電撃作戦に成功したのは、静御前の地縁・血縁による支援があったためだとも考えられているそうです。

源平合戦を源氏方の勝利に導いた英雄である源義経、献身的にそのサポートをした静御前が、鎌倉から追われる立場になってしまったことは、「運命の悪戯」と呼ぶにはあまりにも残酷な運命であったと言わざるを得ません。

アクセス

【静薬師】
香川県木田郡三木町井戸
高松琴平電鉄 公文明駅から徒歩約35分
駐車場なし

【磯野禅尼の墓】
香川県さぬき市昭和
高松琴平電鉄 長尾駅から徒歩約6分
駐車場なし

【源義経ゆかりの地】義経神社(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市義経神社を紹介します。

データ

  • 名称:義経神社
  • 祭神:義経大神
  •   :継信大神
  •   :弁慶大神
  • 訪問日:令和5年4月22日

源義経が愛馬・太夫黒の病気平癒を祈願した社

義経神社は、元々は宝殿または祈祷所と称していた社が、昭和56年(1981年)に「義経神社」と改められたものなのだそうです。

なかなかにワイルドな環境に建つ社殿

元暦元年(1185年)の屋島合戦の際に、この社で源氏方の大将である源義経が愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」の病気平癒の祈願をして全快したことから、その霊験にあやかろうと近隣のみならず遠方からも病気平癒を願う人々が訪れたといいます。

縁側に飾られていた太夫黒と思われる馬の像

由緒によると、太夫黒の全快に義経はおおいに感激し、神職に褒美として太刀や具足を賜り、佐藤嗣信の姓を下された……とありますが、この「佐藤嗣信」というのは義経四天王の一人・佐藤継信のことだと思われます。

社殿に掲げられていた「佐藤氏」の由緒

由緒書きによると、その神職はお金をもらうことなく祈祷をしたことから「幣無太夫」と名を改め、太夫黒(馬)を全快に導いたことと、義経の郎党である武蔵坊弁慶から一字をいただいて「馬慶」を名乗り、当地の佐藤氏の中興の祖となり現在まで連綿と代々伝わっているのだそうです。

近隣の氏子や崇敬者たちの手によって元和8年(1622年)に社殿が新築され、源義経をはじめとした三神を祀ったというこの義経神社ですが、「義経神社」となったのが40年あまり前のことと比較的最近のこととはいえ、その歴史は相当に古いものなんですね。

……と、ここまで書いておいてなんですが。。。

冒頭に「元々は宝殿または祈祷所と称していた社」と記しましたが、ここから南へ200mほどのところに「平尾八幡神社」という神社があり、義経神社はこの平尾八幡神社の祈祷所だったようです。

ググってみると平尾八幡神社には立派な太夫黒の銅像があり、今回の記事の内容をまとめたような由緒を記した碑もあるようなのですが……事前の下調べが十分ではなく、この記事を書きはじめてからからその存在を知りました。

kagawakenjinjacho.or.jp

本来であれば平尾八幡神社をメインにして、「祈祷所だった場所が現在の義経神社です」……と副次的に紹介するという構成の記事にすべきだったようですね。「取材」前の下調べは綿密に、という教訓になりましたよ。。。

またうどんを食べに香川を訪れる機会があったら、そのときこそは忘れずに平尾八幡神社も訪れようと思います。

アクセス

香川県高松市香川町東谷
高松空港から車で約15分
駐車場なし

【後鳥羽上皇ゆかりの地】城南宮(京都市伏見区)

こんにちは、よたろうです。

今回は京都市伏見区の城南宮を紹介します。

データ

  • 名称:城南宮
  • 祭神:城南大神
  • 訪問日:令和5年3月12日

www.jonangu.com

後鳥羽上皇北条義時追討の兵を集めた地

城南宮は「平安城の南に鎮まるお宮」であることを意味しており、延暦13年(794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)に合わせ祀り「城南大神」と崇めたことが創建であると伝わっています。

人が途切れる一瞬の隙をついて撮影した鳥居

平安時代の後期には白河上皇鳥羽上皇により、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点になると、神輿行列や流鏑馬が行われて賑わうなど、城南宮は離宮の総鎮守としていっそう崇められるようになりました。

承久3年(1221年)には後鳥羽上皇が「流鏑馬揃え」を開催しましたが、これは北条義時を追討する兵を集めるための口実であり、武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すべく、義時追討の院宣を発布して挙兵した上皇鎌倉幕府との間に「承久の乱」を起こすも幕府軍に敗北し、隠岐に配流されてしまいます。

そんなことが書いてありますが解読の難易度MAXです

今日では季節ごとに美しい花や紅葉に彩られる神苑「楽水苑」に大勢の観光客が訪れる城南宮ですが、私が訪れた日(2023年3月12日)は「しだれ梅と椿まつり」が開催されていて、本殿へのお参りにも行列ができるほどのたいへんな賑わいでした。

本殿へのお参りも大行列

境内の見事なしだれ梅

生垣の隙間から楽水苑内の様子をコッソリ撮影

ちなみに、城南宮の鳥居や瓦等には可愛らしい紋章が描かれています。

鳥居に描かれた紋章

本殿の瓦に描かれた紋章

これは、太陽と月と星を組み合わせた「三光の御神紋」といって、全国的にみても希少な紋章なんだそうです。祭神の神功皇后(息長帯日売尊)の御座船の旗印に由来し、「昼夜の隔てなく遍く輝きわたる城南宮の方除の御神徳」を象徴しているとのことです。

城南宮のあちこちに描かれていますので、ディズニーパークの「ヒドゥン・ミッキー」のように探してみるのも一興かと思いますよ。

アクセス

京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
京都市営地下鉄烏丸線近鉄 竹田駅から徒歩約15分
駐車場あり

【阿野全成ゆかりの地】醍醐寺(京都市伏見区)

こんにちは、よたろうです。

今回は京都市伏見区醍醐寺を紹介します。

データ

www.daigoji.or.jp

阿野全成が修行を積んだ密教寺院

醍醐寺は山上の上醍醐から山下の下醍醐から成る壮大な寺院で、約4万点にも上る多くの国宝や重要文化財を有する、真言宗醍醐寺派の総本山です。平成16年(1994年)に「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

本尊の薬師如来像を安置する金堂(国宝)

京都最古の木造建造物の五重塔(国宝)

平治元年(1159年)の平治の乱で、父・源義朝が敗死したことで7歳にして出家させられた今若丸(後の阿野全成)が修行を積んだ地としても知られており、治承4年(1180年)に以仁王の令旨が出されたことを知って秘かに抜け出すまでの約20年間、この地で過ごしたとされています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第7回「敵か、あるいは」で新納慎也さん演じる阿野全成が「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!急急如律令!ごう!」と九字真言を唱えて風を起こさんとする初登場するシーンはなかなかに衝撃的(笑劇的?)でしたよね。

厳しい修行によって風を起こすことができるようになるかどうかは定かではありませんが(笑)、醍醐寺修験道の寺院としても知られており、現在でも山岳修行が行われています。

この弁天堂の奥が、修験道が継承される上醍醐

なお、醍醐寺は山の頂上付近の上醍醐と、麓にある下醍醐という大まかに2つのエリアに分かれていますが、上醍醐下醍醐は険しい山道で隔てられていて、徒歩で1時間ほどかかる道程になります。

上醍醐にも国宝や重要文化財である建物がありますので、訪れようとお考えの方は時間に余裕をもって、万全の装備とコンディションで臨んでください(今回は時間が無かったので上醍醐へは行きませんでした)。

下醍醐には本坊にあたる三宝院と伽藍があり、拝観料を納めることでこれらのエリアを散策することができます。

国指定の特別名勝特別史跡である三宝院の庭園

檜皮葺、黒漆塗りの三宝院唐門(国宝)

桜馬場から望む西大門(仁王門)。桜はまだでした

醍醐寺は桜の名所としても知られていますが、私が訪れたときはまだ少し早かったようで蕾の状態でした。大変な混雑になるとは思いますが、満開の時期にもぜひ訪れてみたいですね。

三宝院境内の枝垂桜はまだ咲いていませんでした

この約一週間後に開花したそうです

アクセス

京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
京都市営地下鉄東西線 醍醐駅から徒歩約12分
駐車場あり(有料)

【平清盛ゆかりの地】平清盛の終焉推定地(京都市下京区)

こんにちは、よたろうです。

今回は京都市下京区にある、平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)を紹介します。

データ

日本初の武家政権を樹立した平氏棟梁の終焉地

京都駅の八条口から八条通りを鴨川方面へ進み、河原町通りを超えた辺りにある団地の一角に「平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)」の碑があります。

「崇仁市営住宅」の一角にひっそりと佇んでいます

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、松平健さん演じる平清盛が、小泉孝太郎さん演じる息子の平宗盛に「頼朝を殺せ!わしの墓前に、あやつの首を供えるのだ!」と言い残してこの世を去るシーンがありましたが、その最期の地がこの辺りと考えられているそうです。

中央より左下、鴨川沿いの赤いマークが現在地

吾妻鏡にはもう少し具体的に終焉の地について言及されており、それによると「九条河原口の平盛国邸」だということですが、平盛国は清盛に仕えたの側近で、壇ノ浦の戦いの後には平宗盛とともに鎌倉に送られて岡崎義実に身柄を預けられ、餓死によって自害をしたと伝えられる人物です。

平盛国邸は、永暦2年(1161年)に後白河上皇の第七皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)が生まれた地でもあり、後白河上皇の継室である平時子の異母姉妹である女御・平慈子が憲仁親王の生母であることから、平清盛天皇外戚となるきっかけを得た地であるともいえます。

その後、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に嫁がせ、徳子が安徳天皇を生んだことで目論見どおりに天皇外戚となり、絶大な権力をその掌中に収めることとなります。名目上は高倉天皇院政でしたが、その実態は平氏の傀儡政権だったんですね。

高倉天皇(上)と平清盛(下)の肖像

平清盛の死が治承5年(1181年)で、壇ノ浦の戦いに敗れて平氏が滅亡するのが元暦2年(1185年)……清盛が病に倒れてから僅か4年で平氏一門にとっては「天国から地獄」となりますが、絶対的なカリスマの跡目を継ぐことの難しさを後に源氏も味わうことになるのは、何とも皮肉な運命ですよねぇ。

アクセス

京都府京都市下京区屋形町7
各線 京都駅から徒歩約10分
駐車場なし

【源義経ゆかりの地】首途八幡宮(京都市上京区)

こんにちは、よたろうです。

今回は京都市上京区の首途(かどで)八幡宮を紹介します。

データ

  • 名称:首途八幡宮
  • 祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)
  •   :比咩大神(ひめおおかみ)
  •   :息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
  • 訪問日:令和5年3月11日

www.nishijin.net

源義経(牛若丸)奥州への旅立ちの地

首途八幡宮は、もとの名を内野(うちの)八幡宮といい、平安京大内裏(皇居や官庁があった場所)の北東に位置していたため、王城鎮護の神とされていたといいます。

京都御所の西1kmほどの地に鎮座する首途八幡宮

かつてこの地には奥州で産出される金を商うことを生業としていた金売吉次(かねうりきちじ)の屋敷があったと伝えられていて、牛若丸(源義経の幼名)が奥州平泉に赴く際、吉次の助けを得て、ここで旅の安全と武勇の上達を祈願したといわれています。

鳥居脇の看板にはシュッとした牛若丸のイラスト

義経鞍馬山からこの神社を参詣し、金売吉次に伴われて奥州平泉の藤原秀衡のもとへ旅立ったのは承安4年(1174年)のことですが、この由緒により内野八幡宮は「首途(門出=旅立ち)八幡宮」と呼ばれるようになり、旅立ち・旅行の神様として信仰を集めています。

境内の小高い丘に建っている拝殿

なお、参道には「源義経奥州首途之地」の石碑があり、この碑のすぐ脇にある桃の木は1本の木に紅白の花が咲くことから「源平枝垂れ桃」と名付けられています。

源義経奥州首途之地」の石碑

花はまだ咲いていなかった「源平枝垂れ桃」

※「首途八幡宮 源平枝垂れ桃」で画像検索すると、紅白に咲き分ける様がたくさん出てきます→コチラ

この首途八幡宮は京都の桃の名所で、春には「源平枝垂れ桃」をはじめとしたたくさんの桃の花を楽しむことができますが、これは清和天皇の第六皇子である貞純親王(=桃園親王)がこの地に邸宅を建て、境内に桃の木植えたことが始まりとされているようですね。

ほんのちょっとだけ咲いてました

ちなみに、源氏の守護神である八幡神の神使は鳩とされていて、この首途八幡宮でもあちこちに鳩の意匠が散見されましたが、手水舎にあった、口から水の流れ出る鳩にはちょっと心を奪われました(笑)

可愛いと見るか怖いと見るかは意見が分かれそう

アクセス

京都府京都市上京区桜井町102-1
京都市営地下鉄烏丸線 今出川駅から徒歩約20分
駐車場なし