こんにちは、よたろうです。
今回は比企郡嵐山町にある、菅谷館跡を紹介します。
データ
- 名称:菅谷館跡
- 訪問日:令和4年9月21日
「坂東武士の鑑」畠山重忠の居館跡
菅谷館跡は、東京ドーム約3個分におよぶ広大な面積を持つ複郭式の平城で、鎌倉時代に畠山重忠が居住していた館があったと伝えられています。
ただし、この広大な本郭・二ノ郭・三ノ郭に、それらを防御する土塁・空堀などからなる姿となったのは戦国時代のことで、鎌倉時代の畠山重忠の居館「菅谷館」がどこにあったかは今も分かっていないそうです。
吾妻鏡に「小衾郡菅屋館」に住んでいたと記されていることや、地元に残る多くの伝承や遺跡などから、菅谷館がこの城跡、もしくはその近辺にあった可能性が高い……ということのようですね。
元久2年(1205年)の「畠山重忠の乱」で、相模国の二俣川で北条義時率いる討伐軍と遭遇することになる畠山重忠が鎌倉へ向けて出立したのがこの菅谷館だったと伝わっています。
また、この菅谷館跡のちょうど中心あたりには畠山重忠の石像があります。
個人的に畠山重忠の像といえば、埼玉県深谷市の畠山重忠歴史公園や東京都青梅市の武蔵御嶽神社にあるように、大鎧を身に纏って馬を担いだり馬に乗ったりという、馬とともに造像されているイメージが強かったので、単体で冠直衣姿というのはなんだか新鮮な感じがしました。
ちなみに、この菅谷館跡の敷地内には「埼玉県立嵐山史跡の博物館」がありますが、ここでは御朱印ならぬ「御城印」をいただくことができます。
御朱印は寺社をお参りした証としていただくものであり、スタンプラリー感覚で集めることを諫める寺社もあるなど軽い気持ちでいただくことが憚られますが、御城印は登城の記念スタンプのようなものなのですので、混同には注意が必要です。
私は持っていませんが、「御城印帳」というものもあるそうですので、集めてみようと思われる方は御朱印帳とは分けたほうがいいかもしれませんね。
私は実家も現在の住まいも畠山重忠終焉の地である二俣川からほど近いため、この地を訪れたこと、および我が家から菅谷館跡へ向かう道程が、そのまま往時の畠山重忠の足跡を遡って辿っているかのような、とても不思議で感慨深い訪問になりました。