すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【源平合戦ゆかりの地】屋島寺(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市屋島寺を紹介します。

データ

源平合戦の古戦場を見下ろす高台の古刹

屋島寺は、律宗の開祖である鑑真和上によって天平勝宝6年(754年)に開創され、弘仁6年(815年)には嵯峨天皇の勅願を受けた空海弘法大師)が十一面千手観音像を彫造して本尊として安置したと伝わっており、今日では四国八十八箇所霊場の第八十四番札所として知られています。

青空に映える目にも鮮やかな朱塗りの山門

重要文化財である屋島寺の本堂

境内には屋島の地が源平合戦の古戦場であったことを示す数々の史跡が残されていますが、とくに有名なのが瑠璃宝の池(血の池)でしょう。

空海がお経と宝珠を納めて池にしたとの伝説があり、源平合戦の折には壇ノ浦で戦った武士たちが刀の地を洗い流し、池の水が赤く染まったことから「血の池」と呼ばれるようになったそうです。

そう書いてありました

今は綺麗な水をたたえた穏やかな池です

また、本堂の前方にある広場には、源平合戦での戦没者を供養するために昭和60年(1985年)に合戦から800年を記念して建てられた「源平屋嶋合戦八百年祭供養碑」があります。

ちょっと読みづらいですが、源平合戦のあらましが記されています

下部をよく見ると源義経や弁慶の姿もあります

さらに、屋島の駐車場から屋島寺の山門に至る手前には屋島合戦の主な登場人物を記した大きな看板があり、あまり詳しくない方でも理解を深め楽しめるようになっています。

最初に紹介されているのはもちろん源義経

大河ドラマには登場しなかった那須与一

この他にも「義経四天王」のひとり佐藤継信、平家方一の豪傑といわれる悪七兵衛景清と源氏方・美尾屋十郎の壮絶な一騎打ちである「錣引き伝説」、源義経後白河法皇から賜った名馬・太夫黒等の看板がありますので、屋島を訪れた際にはぜひご覧ください。

なお、この屋島寺はJR屋島駅・琴電屋島駅からシャトルバス、あるいはレンタカー等を利用して訪れることになるかと思いますが、屋島スカイウェイの道中の展望台からは古戦場を臨む絶景を楽しめます。

相引川を挟んで広がる古戦場の絶景

ここから見える景色には源平合戦ゆかりの地がギュッと凝縮されていますので、この絶景を眺めながら往時に思いを馳せるのも一興かと思いますよ。

アクセス

香川県高松市屋島東町1808
琴電志度琴電屋島駅から徒歩約75分(シャトルバスで約25分)
有料駐車場あり

【安徳天皇ゆかりの地】安徳天皇社(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市安徳天皇社を紹介します。

データ

安徳天皇の御在所のあった地に建立された神社

安徳天皇社は、寿永2年(1183年)に源義仲木曾義仲)の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられて三種の神器とともに都落ちした安徳天皇のために造営された御所があったとされる場所に建てられた神社です。

隣接する消防団の行事で人と車が多く、正面から撮れず

古くは「壇の浦神社」とも言われたとか

この地は、壇の浦の入江に臨み、背後には険しい屋島の峰、東には八栗の山を控えた「天然の要害」ともいえる立地で、追い詰められた平宗盛率いる平家一門にとってはまさに「最後の砦」ともいうべき場所であったようですね。

ちょっと読みづらいですが、そんなことが書いてあります

なお、ここに御所が造営されるまでは、対岸の牟礼に現存する六萬寺を仮の御所にしたとされています。

kamakura13.hatenablog.com

安徳天皇といえば、源頼朝に派遣された源範頼源義経ら鎌倉源氏軍との戦いに敗れた平家一門が壇ノ浦での最終決戦にも敗れて滅亡に至った際、母方の祖母である二位尼平時子)に抱きかかえられて壇ノ浦の急流に身を投じ、僅か8歳(数え)で崩御した悲劇の幼帝として知られています。

この入水に関しては諸説あるようで、安徳天皇を抱いて入水したのが二位尼というのは「平家物語」の描写で、「吾妻鏡」では二位尼建礼門院安徳天皇の母・平徳子)らに仕えた按察使局伊勢(あぜちのちぼねいせ)であるとされていますが……いずれにしても、あまりにも悲しい最期ですよね。。。

ちなみに、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平家の残党らとともに落ち延びたとする伝説が、北は青森県から南は鹿児島県に至るまで、全国各地に数多く残っているそうです。

これも後世の「何としても生き延びていてほしい」という願望の成せるところなのでしょうか。

アクセス

香川県高松市屋島東町557-1
琴電志度八栗駅から徒歩約25分
駐車場なし

【源義経ゆかりの地】源義経鞍掛の松(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市にある、源義経鞍掛の松を紹介します。

データ

  • 名称:源義経鞍掛の松
  • 訪問日:令和5年4月23日

www.yashima-navi.jp

義経の軍勢が屋島の戦いに備えて休息した地

源義経鞍掛の松は、寿永4年(1185年)に暴風の吹き荒ぶ中を摂津国から阿波国に上陸した源義経が、屋島の戦いの前に休息をしたと伝わる地です。

路地裏にひっそりと佇む鞍掛の松

解説板が無ければ見逃してしまいそうなアプローチ

義経は嵐の中を僅か5艘・150騎ほどの兵をともなって阿波国に上陸しましたが、「平家物語」によると義経は折からの強風で船出を渋る船頭たちを一喝して強引に出航させ、通常であれば3日はかかる航路を4時間ほどで到着したとされています。

寡兵であることを悟られまいと不眠不休の強行軍で平家方が本拠を置く屋島を目指し、屋島を目前にしてようやく一息ついたのがこの地で、総大将である義経はここで軍勢を休ませ、自身は馬の鞍を外して松の枝に掛けたといわれています。

これは往時の松ではないと思われます

松の隣には「鞍掛地蔵尊」を祀るお堂があります

そのまま一気に屋島を攻め落とされた平氏は瀬戸内海における制海権を失い、すでに九州を源範頼の軍勢に押さえられていたため、絶体絶命の状態で源平合戦最後の決戦の地である壇ノ浦での戦いに挑むことになりますが……

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この屋島の戦いはいわゆる「ナレ終」という扱いで、源平合戦のハイライトの一つでもある那須与一の「扇の的」もまったく触れられることなくスルーされてしまいましたが、この屋島周辺には戦いの足跡が密集しています。

当ブログは「"鎌倉殿の13人"の登場人物のゆかりの地をめぐる」というコンセプトで運営しているため、本来であれば那須与一佐藤継信、菊王丸といった大河ドラマに登場しなかった人物に関する史跡は取り上げない予定でしたが……たくさん「取材」したので、ざっくりと「源平合戦ゆかりの地」として紹介できればと考えています。

アクセス

香川県高松市高松町
JR高徳線 屋島駅から徒歩約2分
駐車場なし

【武蔵坊弁慶ゆかりの地】弁慶の投げ石/長刀泉(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市にある、弁慶の投げ石と長刀泉を紹介します。

データ

【弁慶の投げ石】

  • 名称:弁慶の投げ石
  • 訪問日:令和5年4月22日

www.city.takamatsu.kagawa.jp

【長刀泉】

  • 名称:長刀泉
  • 訪問日:令和5年4月22日

www.city.takamatsu.kagawa.jp

弁慶が2Km先まで跳ね飛ばしたとされる巨石

弁慶の投げ石は高松市牟礼町の田んぼの中にある巨石で、武蔵坊弁慶がその怪力で跳ね飛ばしたものであると伝わっています。

高さ1m、幅・奥行きともに50cmほどの花崗岩

現地の解説板によると、源平合戦屋島合戦)の折、弁慶が長刀の石突きで井戸を掘っていたときに土中から出てきた巨石を大力で一気に跳ね上げたところ、天高く飛び約2km東方のこの地に落ちた……という伝説があるのだそうです。

解説板にそう書いてありました

今でもお正月には地主がしめ縄を飾ってお供えをしてこの石を大切に守り続けているそうです。

弁慶が長刀で掘った井戸跡

弁慶の投げ石から北西方向に4kmほど離れたところには「長刀泉」という、弁慶が長刀を使って掘ったと伝わる井戸の跡があります。

鎌長製衡さんの工場の脇にひっそりと佇む長刀泉

石囲いの中に水は無く、草が生い茂っていました

この付近には源平屋島合戦の際に源氏の本陣が張られていましたが、海が近かったために水は炊事に向かないものでした。そこで、弁慶が長刀の石突きで井戸を掘ったところ綺麗な清水が湧き、その水を炊事に使ったと伝えられています。

先に紹介した「弁慶の投げ石」の解説板によると、弁慶が井戸を掘った際に土中から出てきた巨石を東方約2km先に跳ね飛ばしたとありましたが、距離がちょっと合わないものの(「弁慶の投げ石」から東南に約4km)、何となく辻褄は合っているような気がします。

この2つの史跡を結びつける公的な資料を見つけることはできませんでしたが、おそらくは長刀泉の故事が先にあって、これにちなんで田んぼの中の巨石を「弁慶の投げ石」と呼ぶようになったのではないですかね。

それにしても、弁慶=力持ちの代名詞で、全国各地に「弁慶の○○」といった弁慶が持ち上げたり投げ飛ばしたりしたという巨石が数多くありますが、2kmも跳ね飛ばしたというのは最長不倒記録ではないでしょうか(笑)

アクセス

【弁慶の投げ石】
香川県高松市牟礼町原569
JR高徳線 原駅から徒歩約12分
駐車場なし

【長刀泉】

香川県高松市牟礼町牟礼2293-2
JR高徳線 古高松南駅から徒歩約5分
駐車場なし

【武蔵坊弁慶ゆかりの地】菜切地蔵(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市にある、菜切地蔵を紹介します。

データ

  • 名称:菜切地蔵
  • 訪問日:令和5年4月22日

www.city.takamatsu.kagawa.jp

弁慶がその背中で調理をしたと伝わる石地蔵

菜切地蔵は、第12代景行天皇の皇子である神櫛王墓(かみくしのみこのはか)の南の丘の上にある地蔵堂に安置されている石彫の地蔵菩薩です。

柵とお堂の間に距離が無さ過ぎて正面からの撮影は困難

「菜切地蔵堂」の看板

源平合戦屋島の戦い)の際、ここから南西に500mほど離れた辺りに源氏方の本陣がありましたが、弁慶が兵たちのために炊事をするにあたってまな板が無かったため、この地蔵の背中をまな板代わりにして、大長刀で野菜を切ったと伝わっているそうです。

閉ざされたお堂のガラス越しに内部の様子を撮影

このとき作った汁物を主君・源義経に差し上げたところ、義経が「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と発句を詠むと、弁慶はすかさず「それを知りつつ九郎判官」とこれに答えた……と、江戸末期に刊行された「全讃史」には記されています。

実際にこの目で確認することはできませんでしたが、この石地蔵の背中には弁慶が大長刀で野菜を切った際の刀傷があるともいわれているそうです。

なお、2枚目の写真のように地蔵堂の中には石彫地蔵の左隣には石彫の十一面観音、右隣には五輪塔のような石塔がありますが……土地の人々はこの右側の石塔のことを「地蔵」と呼んでおり、弁慶がまな板代わりにしたのは実はこの石塔のようです。

それはそうですよね、さすがにお地蔵さんをうつ伏せに寝かせて背中で大長刀で調理したとは、なんだか罰当たりな気がしていましたよ。

まぁ、お地蔵さんが石塔であったとしても、あまりにもダイナミックというか、「男の料理」にもほどがあることに変わりはありませんけどね(笑)

ちなみに、周辺には「菜切神社」や「菜切公民館」があるなど、今もこの一帯は集落名を「菜切」と称しているなど、菜切地蔵は地元の象徴的な史跡です。

お堂の手前にも石像がありました(由緒は不明)

アクセス

香川県高松市牟礼町牟礼2317-3
JR高徳線 古高松南駅から徒歩約5分
駐車場なし

【安徳天皇ゆかりの地】六萬寺(高松市)

こんにちは、よたろうです。

今回は高松市の六萬寺を紹介します。

データ

安徳天皇が仮の御所として過ごした寺院

六萬寺は、天平年間(729年~748年)に全国的に流行した伝染病を鎮めるために、聖武天皇行基菩薩に命じてこの地に寺院を建立してお祈りをさせたところ伝染病が消滅し、その後有志によって6万躯の小仏像を安置されたことから「六萬寺」と称したと伝わっています。

山門のないシンプルな佇まいの入り口

延宝7年(1679年)に建てられたという素朴な本堂

伝染病を根絶させたその霊験があって以来、多くの信心を集めて平安時代には七堂伽藍を供えた壮麗な大寺院になりましたが、天正11年(1583年)には失火により伽藍のほとんどが焼け失せてしまったとのことです。

そんな六萬寺は、源平合戦さなかの寿永2年(1183年)、安徳天皇屋島に御遷幸(天皇上皇が他の場所に移ること)された際、御殿の造営が間に合わず、安徳天皇と一門は三種の神器とともに翌年まで御行在所(仮の御所)として逗留された寺としても知られています。

また、文治元年(1185年)の屋島合戦の折には、源義経がこの地の鎮守である勝軍地蔵愛宕大権現に戦勝祈願をしたとも伝わっているそうです。

本堂の向かってすぐ左隣にある愛宕大権現の石鳥居

鳥居をくぐった先のお社の傍らには……

安徳天皇社」の碑がありました

その横には「安徳天皇生母徳子之碑」も

安徳天皇の滞在中は、この地に1000年以上続く神事である「子供神相撲」をお見せして幼帝を慰めたという言い伝えもあるそうです。

ここで子供神相撲が行われたのでしょうか

さらに、六萬寺に隣接するため池・大谷池の北東約200mあたりには、六萬寺が御行在所になった際に、安徳天皇に供えた水を汲んだと伝わる「杉の井」があります。

六萬寺の東側にあるため池・大谷池

昭和20年頃までは水が湧いていたそうです

大谷池にはたくさんの亀がたゆたっていました

ここはかつては老杉の下にあったことから「杉の井」と呼ばれていますが、安徳天皇の生母・平徳子がここで身支度を整えたからなのか別名「建礼門院姿見の井戸」とも呼ばれており、湧き出る水は透明で甘露のように甘く、大干ばつでも枯れることがなかったと伝わっているそうです。

六萬寺周辺は緑豊かで風光明媚な落ち着いた雰囲気ですが、数え8歳という若さで悲劇的な入水によって崩御された安徳天皇がその晩年を過ごされた地と思うと、何だか切なくやりきれない思いになってしまいますね。。。

アクセス

香川県高松市牟礼町牟礼1450
琴電志度六万寺駅から徒歩約10分
駐車場あり

【源義経ゆかりの地】松ヶ崎義経十二本松(さぬき市)

こんにちは、よたろうです。

今回はさぬき市にある、松ヶ崎義経十二本松を紹介します。

データ

  • 名称:松ヶ崎義経十二本松
  • 訪問日:令和5年4月22日

源義経が植えたとされる松

松ヶ崎義経十二本松は、源平合戦屋島合戦・志度合戦)において源義経にゆかりのある12本の松です。

これが12本のうちの1本かどうかは定かではありません

現地の解説板によると、江戸幕府第10代将軍・徳川家治の治世に記された「三代物語」に「松ヶ崎十二本松志度にあり。十二本松に白鷺の群集まるを見て源氏の白旗なりとし、すなわち西へ走る」と書かれているそうです。

これを読み下すと、平氏軍が白鷺が群がった12本の松を源氏軍の白旗と見誤り、西へと逃げた……といった意味になるでしょうか。

だいぶ薄れてしまっていて読みにくいです……

一方で、近隣の志度寺の蔵書には「義経公、阿波勝浦より兵十二騎を引率してここに帷幕を張り、長策をめぐらす」と書かれているそうです。

すなわち、義経が阿波勝浦(現在の徳島県勝浦郡勝浦町)から兵12騎を引き連れてこの地に陣を張って作戦を練ったとされ、1騎ごとに1本、計12本の松を植えたと伝えられているそうです。

「三代物語」の記述を信ずるならば、すでに白鷺が群がった12本の松が屋島から白旗に見えるほどの大木だったということになりますし、志度寺の蔵書の記述を信ずるならば、屋島の戦いの後に繰り広げられた志度合戦の際に植えられたということになり、その成立過程にはタイムラグがあります。

解説板にも「定かではない」と書かれており、また、この解説板以外に松ヶ崎義経十二本松に関する史跡等がないため、正確な謂れを知る術はありません。

なお、この松ヶ崎義経十二本松の解説板がある敷地内は駐車スペースになっており、周囲を見渡すと3本の松がありました(散策の際にここに車を停めていいかどうかは不明です)。

いちばん枝ぶりがよかったのはこの子

いちばん寂しい感じだったのがこの子

一枚目の写真を含めたこの3本が「十二本松」に数えられるものかどうかは分かりませんが、文字が薄れてボロボロの解説板も含め、史跡としてあまり大切にされているようには感じられなかったのがちょっと残念な「三本松」でした。。。

アクセス

香川県さぬき市志度
高松琴平電鉄 琴電志度駅から徒歩約15分
駐車場なし