すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【和田義盛ゆかりの地】無量寺(横須賀市)

こんにちは、よたろうです。

今回は横須賀市無量寺を紹介します。

データ

www.xn--det150cd1x.com

和田義盛が建立した「七阿弥陀堂」の一つ

無量寺は、文治5年(1189年)に和田義盛の開基により創建されたと伝わっています。

雨のそぼ降る横須賀の昼下がり

窓ガラスには三浦氏の家紋「三浦三つ引」

山門はかつては茅葺きだったそうですが、材料の調達が難しく、職人さんも少ないことから存続が難しく、現在の瓦葺きになったようです。

いつ瓦に葺き替えられたかは分かりませんが、無量寺さんのホームページでは平成7年に茅を葺き替えたとの記載があるため、ここ20~30年ほどの間に瓦葺きになったんですね。

近年まで茅葺きだった山門

平成10年(1998年)に本尊の阿弥陀三尊の総修復が行われましたが、その際に阿弥陀如来像の胎内から銘札が発見され、創建当時の阿弥陀如来は運慶作であるとする伝えがあったことが判明したそうです。

この運慶作の阿弥陀如来像は寛文9年(1669年)の火災で焼失してしまいましたが、近隣の村落の数百名の住人により資金が集まり、運慶の流れを汲む大仏師の手によって貞享2年(1685年)に再建されたのが現在の本尊なんだそうです。

そう書いてありました

なお、前述の平成10年(1998年)に行われた本尊の阿弥陀三尊の総修復で発見された銘札には「七阿弥陀堂」の文字があったことから、それまでは謎が多く存在に疑問も呈されていたという「三浦七阿弥陀堂」が実際にあったことが確定に至ったのだそうです。

三浦七阿弥陀堂はいずれも和田義盛が建立したと伝わっていますが、信心深かったと伝わる和田義盛らしいですよね。

ちなみに、三浦七阿弥陀堂を構成する寺院がどこなのかは調べてもハッキリとは分かりませんでしたが、「三浦半島阿弥陀霊場」に数えられる以下の7ヶ寺ではないかと思われます。

kamakura13.hatenablog.com

kamakura13.hatenablog.com

今回紹介した無量時のほかにも、三浦七阿弥陀堂の一つであったと考えられる浄楽寺・光念寺に訪れた際の記事も、合わせてご覧いただけると幸いです。

アクセス

神奈川県横須賀市長坂4-21-18
「佐島入口」バス停から徒歩約8分
駐車場あり

【和田義盛ゆかりの地】浄楽寺(横須賀市)

こんにちは、よたろうです。

今回は横須賀市の浄楽寺を紹介します。

データ

www.jorakuji-jodoshu.com

運慶作の仏像5躯を所蔵する古刹

浄楽寺は正式名を「金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺」といい、和田義盛と妻の小野氏(横山時重の娘)を顧主として文治5年(1189年)に仏師・運慶に制作された仏像5躯を所蔵しています。

雨の日のお寺めぐりも、また善き哉

創建年は不詳のようで起源についても諸説あるようですが、源頼朝が文治元年(1185年)に父・源義朝の菩提を弔うために鎌倉に創建した勝長寿院が建永元年(1206年)の台風で損壊したため、和田義盛北条政子の手によって本尊の阿弥陀如来がこの地に移されたのが起源とも言われています。

運慶の作と伝わる仏像5躯は、写真の本堂ではなく、本堂裏手にある収蔵庫に保管されていて、毎年3月3日と10月19日に一般公開されるそうです。

この仏像の御姿は年に2度しか拝めません

なお、「運慶作」とは必ずしも運慶が個人で制作したものとは限らず、大仏師・運慶が10人の小仏師を率いて造像したものも含まれるそうですよ。浄楽寺さんの境内に掲げられている解説で初めて知りました。

新たな知識習得はフィールドワークの醍醐味です

この運慶作の仏像は、不動明王立像と毘沙門天立像の胎内から発見された月輪形木札から文治5年(1189年)の作であることが分かっているそうですが、鎌倉の御家人たちを束ねる侍所別当であった和田義盛が同年の奥州合戦の戦勝祈願のために運慶に制作を依頼したと見られています。

一方で、この3年前には北条時政が伊豆の願成就院の仏像制作を運慶に依頼していたため、これに対抗して……という見方もあるんですって。

kamakura13.hatenablog.com

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で横田栄司さんが演じる和田義盛のイメージからすると、ものすごく後者のような気がしますが、実際のとこはどうだったんでしょうね(笑)

ちなみに、浄楽寺さんには大正8年(1919年)に横須賀市の芦名の別荘で亡くなった、「日本郵便の父」こと前島密の墓もあります。

前島密翁の立派なお墓

「青天を衝け」「鎌倉殿の13人」と、期せずして2年続けて大河ドラマに登場した人物にゆかりが深く、また、事前予約によって色々な歴史体験を楽しむこともできる、見どころ満載のお寺さんです。

1日楽しめそうですね

アクセス

神奈川県横須賀市芦名2-30-5
「浄楽寺」バス停から徒歩約1分
駐車場あり

【源頼朝ゆかりの地】満昌寺(横須賀市)

こんにちは、よたろうです。

今回は横須賀市の満昌寺を紹介します。

データ

  • 名称:義明山 満昌寺
  • 宗派:臨済宗建長寺派
  • 本尊:宝冠釈迦如来
  • 拝観料:志納(宝物殿の拝観料は300円)
  • 訪問日:令和4年9月20日

manshoji.com

源頼朝三浦義明の菩提を弔うために創建した寺院

満昌寺は、建久5年(1194年)に源頼朝三浦義明を開基として建立した寺院です。

三浦一族の本拠地・衣笠城址にほど近い古刹

雲龍殿」の扁額が掲げれれた本堂

建久5年(1194年)というと、三浦義明石橋山の戦いに敗れた源頼朝との合流叶わず、三浦一族を守るためにひとり衣笠城に籠城して討ち死にしてからすでに14年の歳月を経ていますが、鎌倉幕府成立の礎を築いた功労者たる老将を弔うために、源頼朝が自身ではなく三浦義明を開基として創建したと言われています。

境内の御霊神社にある三浦義明の墓

この満昌寺の山号「義明山」からも、源頼朝三浦義明を無二の忠臣として称えていたことが分かりますよね。

本堂の前には、満昌寺創建の際にこれも源頼朝三浦義明の菩提を弔うためにお手植えされたものと伝わる「源頼朝公お手植えつつじ」があります。

源頼朝公お手植えつつじ

由来はハッキリとしませんが、永い歳月を経ていつの頃からか、この木の枝先に頭を入れると「頭痛持ちが治る」「頭が良くなる」と言い伝えられているそうですよ。

また、本堂の背後には建歴2年(1212年)に和田義盛によって創建されたと伝わる、三浦義明の霊社である御霊神社があります。

和田義盛の創建と伝わる義明山の鎮守

長い石段を登ると社殿でもある宝物殿があり、そこには国の指定重要文化財である「三浦義明坐像」をはじめとした数々の寺宝が展示されています。

石段脇には「羅漢さん」と呼ばれる33体の羅漢像があります

昭和53年に建て替えられた鉄筋コンクリートの社殿

通常は予約が必要なこの宝物殿ですが、私が訪れた時間はたまたま団体さんの見学スケジュールの合間だったこともあり、住職さんに「鍵は開いているのでご覧になっていただいていいですよ」と仰っていただき、急遽眼福に与ることができました(宝物殿内は撮影禁止です)。

当ブログは「大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐる」というコンセプトで運営しているため、創建者である源頼朝のゆかりの地として紹介していますが、このように本来であれば「三浦義明ゆかりの地」として紹介すべきお寺さんです。

歴史や寺宝の謂れ等々について質問をすると懇切丁寧に説明をしてくださるステキな住職さんがお迎えしてくれますよ!

アクセス

神奈川県横須賀市大矢部1-5-10
「満昌寺」バス停から徒歩約1分
駐車場あり

【三浦義村・三浦義澄ゆかりの地】近殿神社/三浦義澄の墓(横須賀市)

こんにちは、よたろうです。

今回は横須賀市にある、近殿(ちかた)神社と三浦義澄の墓を紹介します。

データ

【近殿神社】

miurahantou.jp

【三浦義澄の墓】

  • 名称:薬王寺旧跡・三浦荒次郎義澄公墳墓
  • 訪問日:令和4年9月20日

miurahantou.jp

三浦一族ゆかりの地の総鎮守

コンビニ脇の狭い生活道路の先にあります

深い緑を背にした本堂

近殿神社は、三浦一族ゆかりの地である大矢部(現在の横須賀市大矢部)の総鎮守で、創建年は不詳ですが、大正2年(1913年)に国から発せられた「一村一社の令」により、他にも大矢部の地にあった数々の神社とともに衣笠山の衣笠神社に合祀されました。

しかし、第二次世界大戦後に「衣笠は遠隔で参拝に不便」ということで昭和22年(1947年)に元々近殿神社のあった現在の地に遷宮され、今日に至っています。

短くまとめるのに苦労しました

境内の由緒書きを見ても三浦義村が祭神として祀られている謂れは不明ですが、神様として崇められているということは、権謀術数を駆使し数々の裏切りが伝わる三浦義村のイメージからは想像もつきませんが、領民から崇敬された名君であったのでしょうね。

和田義盛が創建した寺院跡

また、近殿神社から東へ100mほどのところには「十三人の合議制」の宿老の一人であり、「梶原景時の変」の3日後に病没したとされる、三浦義村の父・三浦義澄の墓があります。

住宅街にひっそりと佇む三浦義澄の墓

この辺りには、和田義盛が父である杉本善宗や、叔父である三浦義澄の菩提を弔うために創建した薬王寺がありましたが、明治9年(1876年)頃に廃寺となり、現在は三浦義澄の墓といくつかの石碑や石塔が残るのみとなっています。

薬王寺旧跡」の石碑

薬王寺の御本尊は薬師如来であったようです

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で佐藤B作さん演じる三浦義澄は「次郎」の通称で呼ばれていましたが、ここにある石碑には「荒次郎」と書かれていました。

石碑に「三浦荒次郎義澄公墳墓」の表記(推定)

石碑に「三浦荒次郎義澄公墳墓」の表記(確定)

調べてみると、「荒次郎(あらじろう)」とも単に「次郎」とも呼ばれていたようですね。どちらが正しいというものではないようです。

ちなみに、今回紹介した近殿神社と三浦義澄の墓は、いずれも駐車場はありません。近隣の寺社に停めさせていただく場合は、必ず一声かけてからにしてくださいね。

アクセス

【近殿神社】
神奈川県横須賀市大矢部1-9-3
「満昌寺」バス停から徒歩約2分
駐車場なし

【三浦義澄の墓】
神奈川県横須賀市大矢部1-13-5
「満昌寺」バス停から徒歩約3分
駐車場なし

【和田義盛ゆかりの地】西徳寺(横須賀市)

こんにちは、よたろうです。

今回は横須賀市の西徳寺を紹介します。

データ

www.city.yokosuka.kanagawa.jp

和田義盛が戦勝を祈願した「和田地蔵」を祀る寺

西徳寺は、鎌倉の材木座海岸にほど近い光明寺の末寺として永禄3年(1560年)に開かれました。

当時、廃寺であった真言宗の「源徳寺」、浄土真宗の「無量庵」、浄土宗の「東光寺」と「寿経寺」の4ヶ寺が併合され、現在の「無量寿院 東光山 西徳寺」と改められたとのことです。

西徳寺の本堂

境内には、和田義盛が出陣に際して戦勝を祈願したと伝わる和田地蔵が祀られています。

和田地蔵を祀るお堂

和田地蔵

その戦勝祈願というのは、和田義盛が西徳寺の前に流れる川にお地蔵様を沈め、川上に流れれば戦に勝ち、川下に流れれば戦に敗れるという占いで、川上へと流れたお地蔵様を見た義盛はたいそう喜び、川からお地蔵様を引き上げてお堂を建て、戦勝にご利益のあるお地蔵様として大切に祀ったと伝えられているそうです。

この地蔵堂には「和田地蔵尊御詠歌」が掲げられていて、この戦勝祈願の占いの様子をリズミカルに紹介しています。

つい声に出して読みたくなる和田地蔵尊御詠歌

それにしても、お地蔵様を川に沈めてどちらに流れるかで戦の勝敗を占うというのが、何とも和田義盛らしい豪快な方法の戦勝祈願ですよね(笑)

また、西徳寺の裏山を登ったところには、文化・文政年間(1804~1830年)に姿を現すようになった異国船に備えて三浦半島沿岸を警備することになった会津藩士たちの墓があります。

前日までの台風で登山道はこの有様

大小11基からなる会津藩士の墓

前日までの台風による倒木やぬかるみ、そして大量の蚊に悪戦苦闘しつつ山道を登った先にある会津藩士の墓のさらにその先には、和田義盛の髭剃塚があります。

正体不明の髭剃塚

そこそこの大きさのある塚ですが、新編相模国風土記稿に「義盛塚山上に方三間許り、或は義盛髭剃塚とも唱う、由来詳かならず」とあるように、髭剃塚とも義盛塚とも呼ばれるこの塚が誰を(何を)埋葬したものかは定かではありません。

「謂れはよく分からないけど、和田義盛ゆかりの塚らしいから大切にしよう」というのが何とも大らかというか、和田義盛が領民から愛された存在であるが故、と言えるのかもしれませんね。

アクセス

神奈川県横須賀市鴨居2-20-4
「鴨居」バス停から徒歩約1分
駐車場あり

【和田義盛ゆかりの地】来福寺(三浦市)

こんにちは、よたろうです。

今回は三浦市の来福寺を紹介します。

データ

miurahantou.jp

鎌倉・名越から遷された和田義盛菩提寺

来福寺は建永年間(1206~1207年)に和田義盛の開基、三浦義明のひ孫にあたる満昌院祐憲を開山として創建された、和田義盛菩提寺です。

山号の鹿穴山は「しゃあなさん」と読みます

元々は鎌倉市の名越に建立されましたが、建歴3年(1213年)の和田合戦によって和田氏が滅亡した後の建保5年(1217年)に和田氏発祥の地である和田(現在の三浦市初声町和田)に移転し、さらに時代を下った寛文10年(1670年)に現在の地に移転したとのことです。

和田合戦を経て鎌倉幕府にとって逆臣となった和田氏の菩提寺が鎌倉に居られなくなったために移転したのは分かりますが、二度目の移転は度重なる台風の被害を受けたためなんだそうです。たしかに、本堂の背後は山になっており、風よけになりそうな立地ですよね。

大きく風格のある、堂々とした佇まいの本堂

この来福寺には寺宝として絵画や仏具、和田義盛が所持していた鏡などが所蔵されているほか、三浦市文化財にも指定されている、公家の正装である衣冠束帯の和田義盛像が安置されています。

その他にも和田義盛の妻になったとも伝えられる巴御前が所持していたとされている品も伝えられているようですが……

残念ながらこの来福寺は観光客を積極的には受け入れておられず、拝観はできません。また、真宗大谷派では方針として御朱印の授与は行っていないためにいただくことはできませんので、御朱印集めを楽しみにされている方はご注意ください。
真宗大谷派御朱印を行っていない理由についてご興味をお持ちの方は、こちらをご一読ください(真宗大谷派東本願寺の公式サイト)。

jodo-shinshu.info

境内は自由に散策できます

山門の脇にある案内板によると、元禄10年(1697年)に建立と伝わる本堂は間口が9間(約16.4m)、奥行きが9間半(約17.3m)の大きさを誇る風格のある建物で、本山免許の格式を持つ三浦半島唯一の名刹とのことですが、観光地化されていないため、その規模に反してどこか素朴さを感じるお寺さんです。

拡大してご覧ください

アクセス

神奈川県三浦市南下浦町1859
「池代」バス停から徒歩約15分
駐車場あり

【和田義盛ゆかりの地】白旗神社/わくり井戸(三浦市)

こんにちは、よたろうです。

今回は三浦市にある、白旗神社とわくり井戸を紹介します。

データ

白旗神社

miurahantou.jp

【わくり井戸】

  • 名称:わくり大井戸史蹟
  • 訪問日:令和4年9月19日

和田義盛を祭神として祀る社

建歴3年(1213年)、鎌倉幕府の有力御家人和田義盛が打倒北条氏の兵を挙げるも敗れて和田一族は滅亡しましたが(和田合戦)、義盛の領地であった和田の地の村民たちがその恩義に報いるため、義盛を祭神とした白幡神社を創建しました。

後に天照大神を祭神とする神明社を合祀し、以降は「神明白旗神社」と呼ばれるようになったそうです。

鳥居の奥に見えるは心の折れそうな石段

登り切った石段から下を振り返るとこんな感じ

和田の村人たちがこの地に社殿を設けて白旗神社と称したのは弘長三年(1263年)とのことで、和田義盛が没した建歴3年(1213年)から数えてちょうど50年後も経た後に義盛の善政を偲んで創建、祭祀を篤くしてきたといいますから、和田義盛がいかに領民たちに愛されていたかの証左とも言えますよね。

神明白旗神社の社殿

なお、白旗神社の「白旗」とはもちろん源氏の旗印のことで、ここからも和田義盛が数々の武勇で鎌倉幕府の成立に大きく貢献したことが窺えます。

和田の里の田畑を潤した湧水

また、この神明白旗神社から歩いて15分ほどの距離の川沿いには「わくり大井戸史蹟」の石碑があります。

畑の真ん中にポツンと佇む石碑

かつてこの辺り一帯は「塔の台」という地名であったようですが、塔の台の山裾にあった湧水は「三浦七井」の一つとされる霊泉で、そこからの流れは和田の里の田畑を潤していました。

和田義盛が塔の台の地蔵尊に参拝する際にその流れで水垢離をしたと言われ、そのことからこの川には「精進川」の名が付けられたと伝わっているそうです(現在は「庄司川」の表記)。

所々が白塗りで隠されていて解読に難儀しました

和田義盛が水垢離している姿を思い浮かべると、毛むくじゃらの大男が大声を上げながら水を浴びる様が容易に想像できますが、それだけ大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で和田義盛を演じる横田栄司さんがイメージどおりのはまり役ということなんでしょうね(笑)

今回紹介した白旗神社やわくり井戸の他にも、三浦市の初声(はっせ)町には和田義盛のゆかりの史跡がたくさんありますので、訪れてみようと思われる方はぜひ合わせてご覧いただければと思います。

kamakura13.hatenablog.com

kamakura13.hatenablog.com

アクセス

【神明白旗神社
神奈川県三浦市初声町和田1746
「和田」バス停から徒歩約3分
駐車場なし

【わくり井戸】
神奈川県三浦市初声町高円坊30
「和田」バス停から徒歩約17分
駐車場なし