すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【武蔵坊弁慶ゆかりの地】弁慶塚(藤沢市)

こんにちは、よたろうです。

今回は藤沢市にある、弁慶塚を紹介します。

データ

  • 名称:弁慶塚
  • 訪問日:令和4年5月28日

弁慶の首塚跡と伝わる塚

小田急江ノ島線藤沢本町駅から歩いて10分弱の常光寺さんの裏手に「中横須賀公園」という広場があり、そこから階段を登った先が今回紹介する弁慶塚です。

写真奥の階段を登ります

弁慶塚の石碑

この辺りはかつてここから500~600mほど離れたところにある白旗神社社領で、八王子社という神社があったそうです。

その白旗神社の由緒によると、武蔵坊弁慶の首は主君である源義経の首とともに鎌倉に送られて首実検がなされた後、夜の間に二人の首が白旗神社に飛んできた……とされているようです。夜の闇に紛れて中空を舞う二つの首っていうのを想像すると、ちょっと怖いですよね(笑)

その後、義経は白旗明神として祀られて白旗神社の祭神となり、弁慶の首は前述の八王子社として祀られたとのことです。つまり、その八王子社跡が今回紹介する弁慶塚ということになりますね。

一般的に神社は南向きか東向きに建てられるそうですが、八王子社は主君・源義経を祀る白旗神社のある北向きに建てられたとのこと。義経と弁慶は800年余の時を経た今もなお、深い主従関係で結ばれていると言えるのかもしれません。

なお、ここから歩いてすぐのところに源義経の首洗い井戸(伝 義経首洗井戸)がありますので、合わせてお参りをされてみてはいかがでしょうか。

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ちなみにこの弁慶塚、神奈川県や藤沢市のWEBサイトでは紹介されておらず、場所もちょっと分かり難い場所にあります。先達のブログ等を見ると「常光寺の境内(墓地内)」と紹介されているケースもあり、私もまずは常光寺さんに伺いました。

元亀3年(1572年)創建の常光寺さん

実際、常光寺さんの墓地から地続きになってはいるのですが、墓地には「檀家さん以外立ち入り禁止」との注意書きがありますので、弁慶塚を訪れる際は藤沢本町駅から見て常光寺さんの少し手前にある済美館(藤沢公民館分館)の脇道を入ってくださいね。

アクセス

神奈川県藤沢市藤沢本町4-5-21
小田急江ノ島線 藤沢本町駅から徒歩約10分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)

【源義経ゆかりの地】伝 源義経首洗井戸(藤沢市)

こんにちは、よたろうです。

今回は藤沢市にある、伝 源義経首洗井戸を紹介します。

データ

  • 名称:伝 義経首洗井戸
  • 訪問日:令和4年5月28日

www.fujisawa-kanko.jp

源義経の首を洗い清めたと伝わる井戸

マンションの裏手の小さな公園の片隅にあります

文治5年(1189年)、源頼朝によって鎌倉を追われた源義経は奥州平泉の衣川で自害したといわれています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、菅田将暉さん演じる源義経藤原泰衡の手勢に追い詰められながらも、武蔵坊弁慶ら郎党が応戦するのを嬉々として眺める様が「最期の姿」として描かれました。義経の自害も「弁慶の立ち往生」もなく、悲壮感を1ミリたりとも感じさせずにすべてを察せさせる三谷幸喜さんの脚本には脱帽ですよね。

鎌倉に届けられた義経の首桶を抱いて頼朝が慟哭する姿は大河ドラマ史上でも指折りの名シーンではなかったでしょうか。私はBSプレミアムNHK総合とで2回見て2回とも号泣し、翌日は目を腫らして会社に行きましたよ(笑)

ただし、吾妻鏡によると鎌倉に届けられた源義経の首は梶原景時和田義盛によって首実検がなされたのみで、頼朝がその首を実際に目にすることはなかったようです。

義経の首は片瀬の浜に捨てられた後、潮に流されて川を遡り、村人に拾われてこの井戸で洗い清められたと伝わってはいるようですが……いくら頼朝の怒りを買ったにせよ、義経ほどの人物の首が埋葬もされずに捨てられたっていうことはない気がするのですが、「史実」はともかく「事実」を知る術はありませんからね。。。

首洗井戸にまつわる伝承の説明書き

義経の首を洗い清めたと伝わる井戸

井戸の傍らには首を弔う首塚があります

ここから北へ5分ほど歩いたところにある白旗神社、南へ同じく5分ほど歩いたところにある弁慶塚等々、鎌倉から10kmほどの距離にあるこの地には源義経、および武蔵坊弁慶にまつわる伝承が数多く残されています。

kamakura13.hatenablog.com

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いずれのスポットも最寄りの小田急江ノ島線藤沢本町駅から徒歩5~10分ほどで、アップダウンの少ない平坦な道程ですので、お散歩がてら巡ってみてはいかがでしょうか。

アクセス

神奈川県藤沢市藤沢2-1-10
小田急江ノ島線 藤沢本町駅から徒歩約5分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)

【佐々木高綱ゆかりの地】鳥山八幡宮(横浜市港北区)

こんにちは、よたろうです。

今回は横浜市港北区の鳥山八幡宮を紹介します。

データ

  • 名称:鳥山八幡宮
  • 祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)
  •    天照大神(あまてらすおおみかみ)
  • 訪問日:令和4年5月21日

www.kanagawa-jinja.or.jp

佐々木高綱の創建と伝わる八幡宮

二連の石造りの鳥居をくぐって社殿へ

治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵に従った佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)の四男、佐々木高綱の屋敷がこの鳥山八幡宮の付近にあったとされています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、緒戦となった伊豆目代山木兼隆、および後見の堤信遠の襲撃の際にチラッと登場した程度で兄弟に目立った活躍は見られませんでしたが、史実では源平合戦における最初の一矢を放った次男の経高、宇治川の戦い梶原景季と先陣を争った四男の高綱の活躍が有名ですよね。

佐々木氏といえば、別の記事でも紹介したように相模国渋谷荘(現在の神奈川県藤沢市綾瀬市大和市にあたる地域)で渋谷重国の庇護を受けていました。

kamakura13.hatenablog.com

恥ずかしながら私は今回の大河ドラマを見るまで佐々木秀義のこともその息子たちのことも知らなかったんですが、我が家から10km前後のところに名だたる武将たちゆかりの地があろうとは夢にも思いませんでした(ちなみに我が家は横浜市内ですが、鳥山八幡宮よりも藤沢市の長後天満宮のほうが近いです 笑)。

交通の便はちょっと悪いです

今回は訪れませんでしたが、この八幡宮のそばには前述の梶原景季との先陣争いの際に佐々木高綱が駆った名馬「生唼(いけずき)」の墓とされる「馬頭観音堂」がありますので、折を見て訪れてみたいと思います。

ところで、この記事を書くにあたって事前に神奈川県神社庁のWEBサイトで調べたら、この鳥山八幡宮の祭神は「應神天皇(おうじんてんのう)」となっていましたが、境内に掲げられていた縁起には「誉田別尊」と「天照大神」と書いてありました。

割りと新しめの手書きの縁起

「どういうこと?」と思って調べてみたところ……日本書紀における應神天皇の名が「誉田天皇誉田別尊)」なんですってね。元々日本の歴史には疎い私ですが、ブログを書くようになって毎回のようにこういった新しい発見があって楽しいです。

惜しむらくは、この知識欲が学生時代には絶望的なほどに欠如していたことでしょうか(笑)

アクセス

横浜市港北区鳥山町281-3
JR横浜線 小机駅から徒歩約15分
駐車場なし

【佐々木秀義・阿野全成ゆかりの地】長後天満宮(藤沢市)

こんにちは、よたろうです。

今回は藤沢市の長後天満宮を紹介します。

データ

www.fujisawa-kanko.jp

渋谷重国の庇護で捲土重来を期す

永久3年(1115年)に渋谷氏が居城内に建立

今回の記事、当ブログは「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ゆかりの地をめぐるブログ」というコンセプトなので、タイトルを【佐々木秀義・阿野全成ゆかりの地】としていますが、正確を期するならば【渋谷重国ゆかりの地】になろうかと思います。

残念ながら今回の大河ドラマには登場していませんが、渋谷重国は渋谷荘(現在の神奈川県藤沢市綾瀬市大和市にあたる地域)を安堵された鎌倉幕府御家人の一人であり、源範頼率いる木曾義仲の追討軍にも参加していたそうです。

渋谷氏は建歴3年(1213年)の和田合戦で滅亡

鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、渋谷重国は平治元年(1159年)の平治の乱で源氏方として戦い、源氏が敗れた際には敗走する佐々木秀義(定綱・経高・盛綱・高綱兄弟の父)を渋谷荘に匿ったことを契機に、両氏に深い縁ができたとのこと。

そして、時を経た治承4年(1180年)の石橋山の戦いでは平氏に対する旧恩から大庭景親軍に属したものの、戦勝後の「佐々木一族を捕らえよ」との要請は拒否し、佐々木氏、および源頼朝の挙兵を聞いて京都・醍醐寺から東国に下る途上で佐々木兄弟と行き会った頼朝の異母弟・阿野全成を渋谷荘に迎え入れ、その後は源頼朝に臣従したんだそうです。

大河ドラマでは惚けた老将として描かれている佐々木秀義、そして伊豆山権現で怪しげな陰陽の術を披露する(してないけど)衝撃の登場となった阿野全成、この二人に劇中での絡みはありませんでしたが、この地でともに渋谷重国に匿われつつ捲土重来を期していた……というのも面白いですよね。「事実は小説よりも奇なり」といいますが、差し詰め「史実は大河ドラマよりも奇なり」といったところでしょうか。

アクセス

神奈川県藤沢市長後1412
小田急江ノ島線 長後駅から徒歩約15分
駐車場あり

【北条政子ゆかりの地】御所台の井戸(横浜市保土ヶ谷区)

こんにちは、よたろうです。

今回は横浜市保土ヶ谷区にある、御所台の井戸(政子の井戸)を紹介します。

データ

  • 名称:御所台の井戸(政子の井戸)
  • 訪問日:令和4年5月7日

www.city.yokohama.lg.jp

北条政子が化粧に使った井戸

JR保土ヶ谷駅から国道1号線を挟んで10分弱歩いた先にある「いわな坂」の途中に、この「御所台の井戸(政子の井戸)」があります。

マンションの隣にひっそりと佇む東屋

覗いたら怒られそうなので、水の有無は確認できず

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で小池栄子さん演じる北条政子は「御台所(みだいどころ)」と呼ばれていますが、ここは「御所台(ごしょだい)の井戸」です。

この井戸のはす向かいに「御所台地蔵尊」というお地蔵様があることからも、どうやら「御所台」というのは貴人の妻を指す「御台所」とは関係なく、そういう地名だったようですね。もっとも、現在この辺りに「御所台」という地名は残っていないので推測の域は出ないのですが。。。

こちらは御所台地蔵尊

この井戸の傍らには由来の解説が掲げられていますが、だいぶ色褪せていて画像では読み難いと思いますので、以下に抜粋して書き起こします。

そろそろスミ入れをし直したほうがよいのでは?

(前略)

 鎌倉時代源頼朝の妻政子がここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ、「御所台の井戸」と呼ばれています。

 また、保土ヶ谷宿の苅部本陣(保土ヶ谷町一丁目68番地)に江戸時代、将軍が休息した時、御膳水としてこの井戸の水を使用したと伝えられています。


この一帯が政子の所領だったのではないかとの説もあるそうですが、将軍の御膳に使用されたということは、相当な名水だったんでしょうね。

それにしても、こうして当ブログ開設をキッカケに色んな場所を「取材」するようになって知りましたが、こういった「誰々が化粧に使った(髪を整えた)」といういわれの水場って結構あるものなんですね。

kamakura13.hatenablog.com

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それらのいわれについて「本当なの?」なんて疑念を抱く方もいらっしゃるかもしれませんが、実際に現地に赴いて調べてみると、こちらの想像をはるかに超えて地元の方々に愛されていることを肌で感じることができるのも、フィールドワークの醍醐味といえるかもしれません。

アクセス

横浜市保土ヶ谷区岩井町71-4
JR 保土ヶ谷駅から徒歩約8分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)

【和田義盛ゆかりの地】和田稲荷(横浜市保土ヶ谷区)

こんにちは、よたろうです。

今回は横浜市保土ヶ谷区の和田稲荷を紹介します。

データ

  • 名称:和田稲荷大明神
  • 祭神:不明神奈川県神社庁に登録なし
  • 訪問日:令和4年5月7日

和田義盛の夢枕に立つ観音様のお告げで建立

鳥居と幟に囲まれた、"雰囲気のある"外観

源頼朝から鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられ、数々の武功を立てた和田義盛大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では横田栄司さんが好演し、権謀術数渦巻く鎌倉において裏表のない豪胆な性格で、どこか憎めない「癒し系」として視聴者の人気も高いですよね。

大河ドラマ和田義盛に興味を持って色々と調べてみると、相鉄線和田町駅のある「和田町」という地名は和田義盛に由来しているとのこと。私は長年相鉄線の沿線で生活をしていますが、まったく知りませんでした。。。

さっそく訪ねてみたところ、お社にはこの和田稲荷の縁起の書かれた額が掲げられていましたが、ところどころが擦れて読むことができません……

こぢんまりとしたお社

すり減っててよく読めないなぁ(CV:山田康雄さん)

が、お隣の真福寺さんでこの縁起の写しをいただけるとの貼り紙があったので、さっそく伺っていただいてきました。

この和田稲荷を管理されているのはお隣の真福寺さん

縁起の写しをいただいてきました

これによると、和田義盛が治承年中(1177年~1181年)に源頼朝白根不動へ参籠(神社や仏寺などに一定の期間昼夜こもって祈願すること)するお供についた道中でこの地で宿を取り、夢枕に立った十一面観音から「お稲荷様を信じれば願いが叶いますよ」とのお告げを受けたことを源頼朝に話したところ、喜んでこの地を与えられ、文治元年(1185年)の神社が完成したとのこと。

その後、建久4年(1193年)に源頼朝が狩りでこの地を訪れた際にこの神社を参拝し、ここを「和田稲荷」と名付けた……ざっくりとではありますが、こんなことが書いてありました。

白根不動といい、和田町といい、幼いころから慣れ親しんだ場所が実は源頼朝やその御家人たちと縁が深いっていうのは、不思議というか面白いというか。「鎌倉殿の13人」は、私に地元に対する興味を駆り立ててくれます。

アクセス

横浜市保土ヶ谷区峰岡町3丁目
相鉄線 和田町駅から徒歩約10分
駐車場なし(真福寺に駐車場あり)

【源頼朝ゆかりの地】大倉幕府跡(鎌倉市)

こんにちは、よたろうです。

今回は鎌倉市にある、大倉幕府跡を紹介します。

データ

  • 名称:大倉幕府跡
  • 訪問日:令和4年4月23日

www.trip-kamakura.com

鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)の御所跡地

清泉小学校脇に立つ石碑

治承4年(1180年)、鎌倉入りした源頼朝が屋敷を構え、頼家・実朝の治世を経て、嘉禄元年(1225年)に頼朝の妻・政子が亡くなったのを機に宇津宮辻に幕府が遷されるまでの45年間に渡って鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)の御所だったのが、この大倉(現在の鎌倉市雪ノ下)だったそうです。

現在は清泉小学校の脇に写真の石碑が建つのみで往時の面影はありませんが、この地を中心に鎌倉殿や御家人たちによるドロッドロの人間模様が繰り広げられていたと思うと、胸が熱くなりますね。

もちろん、私の脳内でそんな人間模様を描き出しているのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する役者さんたちですが(笑)

この小学校の校長先生は「将軍」と呼ばれています(嘘)

ここから歩いて7~8分ほどのところにある大河ドラマ館(鶴岡八幡宮の境内)では、この大倉に築かれた幕府のジオラマが展示されていますので、合わせて楽しんでみてはいかがでしょうか。

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ちなみに、この石碑のある場所から鶴岡八幡宮方面へ5分ほど行ったところに、我らが畠山重忠の屋敷があったそうです。

畠山重忠邸址」の石碑

石碑をざっくりと読み下すと「三幡(乙姫)のために京から呼ばれた名医を逗留させた」といったことが書かれています。鎌倉殿の御所のすぐ近くに屋敷を構えるほどの有力な御家人があんな悲しい最期を迎えてしまうだなんて……あまりにも理不尽ですよねぇ。。。

アクセス

鎌倉市雪ノ下3-6-26
JR・江ノ電 鎌倉駅から徒歩約20分
駐車場なし(近隣に有料駐車場あり)