すべての道は鎌倉に通ず

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地をめぐるブログ

【源義高ゆかりの地】清水八幡(狭山市)

こんにちは、よたろうです。

今回は狭山市の清水八幡を紹介します。

データ

  • 名称:清水八幡宮
  • 祭神:清水冠者義高
  • 訪問日:令和4年9月22日

www.city.sayama.saitama.jp

「清水冠者」源義高を祭神として祀る神社

清水八幡は源義高を祭神として祀る神社で、源頼朝の追手から逃れようとしたものの捕まってしまい、すぐ近くを流れる入間川の河原で討たれた義高の死を哀れんだ里人がその亡骸を埋めて墓を築いたのが始まりとされています。

参道には「悲劇の武将 源義高ゆかりの地」の幟

境内には「清水冠者源義高終焉の地」の立看板

源義高は「朝日将軍」こと木曾義仲の嫡子で、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝と妻・政子の間に生まれた大姫の婿になっていましたが、義仲が頼朝に討ち果たされたことを知り、自分の身に降りかかる難を逃れるために逃亡しました。

鎌倉を逃れた源義高がなぜこの入間川の河原で討ちとられたかというと、義高は従者わずか6名ばかりとともに祖父・義賢の地である大蔵館や、父・義仲を助けた畠山重能の地である菅谷館がある、現在の嵐山町を目指していたと考えられているからのようです。

清水八幡のすぐ脇を流れる入間川

kamakura13.hatenablog.com

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吾妻鏡には、政子と大姫は義高の死を嘆き悲しみ、義高を討ち取った藤内光澄を打ち首に処し、義高の霊を慰めるため入間川の河原に建てた社がこの清水八幡……との記述がありますが、冒頭に記したように里人が築いた墓を後に政子が清水八幡とし、入間河原の近隣鎮護の神として祀られるようになったということのようですね。

ただし、度重なる暴風雨や洪水によって往時の社は跡形もなくなり、現在の清水八幡も「この辺りであろう」と思われる場所なんだそうです。

江戸期に再建されたと考えられいる社

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、市川染五郎さんが愁いを帯びた源義高を好演し視聴者の涙を誘いましたが、この清水八幡をお参りに訪れる機会がありましたら、ぜひ「オンベレブンビンバ」と真言を唱えてください。

 

長澤まさみ「正しくは オンタラクソワカ である」

アクセス

埼玉県狭山市入間川3-35-10
「下諏訪」バス停から徒歩約5分
駐車場なし

【比企能員ゆかりの地】正法寺(岩殿観音)(東松山市)

こんにちは、よたろうです。

今回は東松山市正法寺(しょうぼうじ)を紹介します。

データ

  • 名称:巌殿山 修善院 正法寺
  • 宗派:真言宗智山派
  • 本尊:千手千眼観自在菩薩
  • 拝観料:志納
  • 訪問日:令和4年9月22日

比企能員を中興の祖とする古刹

正法寺は、寺伝によると養老2年(718年)に僧・逸海(いっかい)が岩殿山の岩窟に観音像を安置し、その傍らに正法庵という草庵を結んだのが始まりとされているそうです。

本尊の千手観音を祀る観音堂

鎌倉時代には源頼朝の命により比企能員が復興し、本尊の千手観音は頼朝の妻・政子の守り本尊として信仰が厚かったと言われ、頼朝の没後の正治2年(1200年)にはその意志を継いだ政子によって堂宇が再建されたと伝わっています。

そう書いてありました

この正法寺(岩殿観音)は坂東三十三観音霊場の第十番札所に選ばれていますが、第九番の慈光寺、第十一番の安楽寺とともに、比企郡では33の札所のうち3つが札所となっており、頼朝が厚い信頼を寄せる比企能員の領地から有力な寺院が推挙されたことが窺えますね。

第十番札の石柱

kamakura13.hatenablog.com

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なお、本堂から観音堂に至る石段の途中にある立派な仁王門の仁王像は運慶作であったそうですが、江戸時代に焼失してしまったとのことで、現在のものは文化年間(1804年~1818年)に再建されたものだそうです。

ぜんぜん仁王像が写ってないッスね。。。

色々と調べてみると、焼失してしまったのは仁王門・仁王像だけではなく、前述の観音堂も兵火や火災による幾多の焼失を経て、明治時代に移築された建物なんだそうです。戦火が絶えない時代のこととはいえ、度重なる火災で歴史的な建造物や仏像などが焼失してしまうというのは、胸が締め付けられる思いですよね。。。

ちなみに、こちらの正法寺では社務所で受付をすると本堂に上がらせていただくことができ、御本尊様の写真も撮らせていただけました。

山門とその奥の本堂

ただし、撮影はOKでしたがブログへの掲載は「とくに禁止はしませんが常識の範囲内でお願いします」とのことであったため、今回は個人で楽しむにとどめて掲載は控えることにしました。ご覧になりたい方はぜひ正法寺さんを訪れてお参りしてください。

代わりと言ってはなんですが……社務所の脇にいたカワイ子ちゃんをご堪能いただければと思います。

猫を見かけたら写真を撮るのが流儀

アクセス

埼玉県東松山市岩殿1229
山村学園短期大学」バス停から徒歩約5分
駐車場あり

【畠山重忠ゆかりの地】井椋神社/鶯の瀬(深谷市)

こんにちは、よたろうです。

今回は深谷市にある、井椋(いぐら)神社と鶯の瀬を紹介します。

データ

【井椋神社】

  • 名称:井椋神社
  • 祭神:猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
  •   :武甕槌命(たけみかずちのみこと)
  •   :經津主命(ふつぬしのみこと)
  •   :天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
  •   :比賣神(ひめがみ)
  • 訪問日:令和4年9月22日

www.saitama-jinjacho.or.jp

【鶯の瀬】

  • 名称:鶯の瀬
  • 訪問日:令和4年9月22日

畠山一族の守護神を勧請した神社

井椋神社は、畠山重忠の父・重能が畠山荘司となって秩父からこの地に進出してきた際に、重能の祖父・重綱が現在の秩父市下吉田にある椋(むく)神社を勧請してきた神社と伝えられています。

畠山重忠菩提寺・満福寺のすぐ北にあります

比較的新しい様式の印象の社殿

椋神社は代々秩父平氏の守護神として崇敬されており、この井椋神社も畠山氏累代の守護神であったと推測されます。

治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵の際、父・重能が大番役で京に上っていたために一族を率いることになり、衣笠合戦で三浦義明を討ち取るなど平氏方として戦った重忠は後に頼朝に帰伏しましたが、この井椋神社には境内社として源氏の白旗を祀った白旗八幡神社があることから、頼朝に臣従した後も重忠をはじめとした畠山一族の崇敬を集めていたのでしょうね。

鶯の鳴き声に導かれて洪水を回避した伝説

また、社殿の裏手の荒川沿いには「鶯の瀬」の碑が建立されています。

「史跡 鶯の瀬」の石碑

この地には、畠山重忠が榛澤成清のもとを訪れた帰路に豪雨に遭い、川が増水して荒川を渡れず困っているところ、一羽の鶯が美しい鳴き声で浅瀬に導いてくれたために無事に渡ることができたという言い伝えがあるそうです。

石碑の辺りから見下ろした荒川

その際に畠山重忠が詠んだといわれる歌がこちらです。

時ならぬ 岸の小笹の鶯は

  浅瀬たずねて 鳴き渡るらん

ちなみに、榛澤成清(はんざわなりきよ)とは畠山重忠の乳兄弟と考えられている家臣で、重忠が平家方として戦うか、あるいは源氏方につくかを相談するなど、側近中の側近であったと言われているそうです。

「推し武将は畠山重忠」などと言っている私ですが、ここを訪れるために色々と調べるまでは榛澤六郎成清の名を知りませんでした。建久2年(1205年)の「畠山重忠の乱」で主君とともに討ち死にしたとのことですので、畠山重忠とその一族郎党を祀る横浜市旭区の薬王寺を次に訪れる際には、畠山重忠だけでなく榛澤成清にも思いを馳せてお参りしたいと思います。

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アクセス

【井椋神社】
埼玉県深谷市畠山942
秩父鉄道 永田駅から徒歩約16分
駐車場あり

【鶯の瀬】
埼玉県深谷市畠山942
秩父鉄道 永田駅から徒歩約16分
駐車場あり(井椋神社の駐車場に駐車可)

【畠山重忠ゆかりの地】満福寺(深谷市)

こんにちは、よたろうです。

今回は深谷市の満福寺を紹介します。

データ

「坂東武士の鑑」畠山重忠菩提寺

満福寺は、1110年頃に鳥羽天皇の御代に弘誓房(ぐせつぼう)深海上人が創建した寺院を、寿永年間(1182~1184年)に畠山重忠が再興して菩提寺としたものとされています。

朱塗りの山門

寛政4年(1792年)建立の本堂

この満福寺には畠山重忠菩提寺として「実山宗眞大居士」の位牌があり、寺宝として茶釜・茶碗・太刀・長刀・大般若経御朱印状などが伝えられています。

力強い文字に相反して何だか可愛いイラスト

境内には「重忠廟」の碑がありますが、畠山重忠の墓はありません。

「重忠廟」の碑(左は畠山重忠公800回忌の五輪塔

「重忠廟」の碑に隣接する、可愛らしい「重忠公」の碑

ここから歩いて7~8分のところにある畠山重忠公史跡公園には畠山重忠の墓とされる五輪塔がありますが、元々はこの満福寺にあったものを移設されたものと考えられているようですね。

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また、境内には別棟の観音閣があり、ここには畠山重忠の守り本尊である千手観音像が安置されています。

千手観音像が安置されている観音閣

この千手観音像は畠山重忠の等身大で、その身の丈は六尺三寸とのことですが、六尺三寸というと約1.9089メートル……鎌倉時代の男性の平均身長は約158~159cmほどであったと言われていますから、かなりの大男だったんでしょうね。

ちなみに、山門脇の掲示板には大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で畠山重忠を演じた中川大志さんと、深谷市の小島進市長の対談の様子を紹介する切り抜きが掲示されていますが、この対談が行われたのが満福寺の本堂だったようです。

1ページ欠落しているので読んでてモヤモヤします

中川大志さんも179cmと成人男性としては大きいほうですが、「鎌倉殿の13人」の演者さんってみんな背が高い印象だったので、主だった登場人物の身長を調べてみたところ……

私も日本人の平均身長的には決して小さいほうではありませんが、こんなに背の高い人たちに囲まれたら負い目を感じてしまいそうです(笑)

アクセス

埼玉県深谷市畠山931-1
秩父鉄道 永田駅から徒歩約20分
駐車場あり

【畠山重忠ゆかりの地】畠山重忠公史跡公園(深谷市)

こんにちは、よたろうです。

今回は深谷市にある、畠山重忠公史跡公園を紹介します。

データ

  • 名称:畠山重忠公史跡公園
  • 訪問日:令和4年9月22日

www.city.fukaya.saitama.jp

畠山重忠の生地にして聖地

畠山重忠公史跡公園は、畠山重忠が誕生したと伝わる「畠山館跡」があった場所が整備されてつくられた公園で、重忠の銅像や墓、産湯の井戸などがあります。

畠山重忠の聖地」といっても過言ではない場所です

この畠山重忠公史跡公園があるのは埼玉県深谷市の畠山……ということで、この地こそが文武両道に優れ、謹厳実直で情に厚く、仁智勇の三徳を兼ね備えた「坂東武士の鑑」こと畠山重忠のお膝元、まさに聖地と言えるのではないかと思います。

園内には畠山重忠ゆかりの数々の史跡がありますが、まずは「畠山重忠公産湯ノ井戸」から紹介しましょう。

畠山重忠公産湯ノ井戸

畠山重忠は長寛2年(1164年)、武蔵国秩父の荘司(荘園の管理者)であった父・畠山重能と、相模国の豪族三浦義明の娘である母・眞鶴姫の間に二男として誕生しましたが、ここはその産湯に用いた井戸と伝わっているそうです。

次に畠山重忠の墓を紹介します。

覆屋の中に畠山重忠主従6基の五輪塔

中央に設置されている畠山重忠五輪塔

内部の配置はこちらをご覧ください(拡大推奨)

上写真の覆屋の中には6基の五輪塔がありますが、そのうち4基はもともとこの地にあったもので、残る2基はここから歩いて7~8分のところにある満福寺から移設されたものと考えられているそうです。

ただし、移設された2基のうちのどちらかが畠山重忠の墓とされているそうですが、6基のうちのどれが移設された2基かは不明とのことですので、おおよその造立時期からの推定ということのようですね。

その他にも、畠山重忠が先祖供養のために秩父にあった一族の墓地に植えた木を親木とする伽羅の木や……

現存するのは挿し木で世代交代した苗木を植えたもの

秩父から畠山に居を移して畠山荘司となり、畠山姓を名乗るようになった重忠の父・畠山重能の墓や……

この碑は墓ではなく、実際の墓は園内の自然石

嘉元2年(1304年)に畠山重忠の百回忌供養のために建立されたと伝わる「板石塔婆」、さらには畠山重忠公没後800年の記念事業の一環として植えられたしだれ桜や慰霊碑等々、園内のどこを見ても畠山重忠とその一族にまつわる史跡があり、「畠山重忠公史跡公園」の名に違わぬ見どころ満載な公園です。

百回忌供養で建立されたと伝わる板石塔婆

私は実家も現在の住まいも畠山重忠終焉の地である二俣川にほど近く、幼いころから「畠山重忠」という名前は耳に馴染みのある響きだったので、いつかここを訪れるのが夢……というと大袈裟ですが、一つの目標だったんですよね。

そんな「地元のヒーローの地元」を初めて訪れ、畠山重忠公への特別な思いがより強くなりました。

アクセス

埼玉県深谷市畠山510-2
秩父鉄道 永田駅から徒歩約20分
駐車場あり

【若狭局ゆかりの地】宗悟寺(東松山市)

こんにちは、よたろうです。

今回は東松山市の宗悟寺を紹介します。

データ

  • 名称:扇谷山 宗悟寺
  • 宗派:曹洞宗
  • 本尊:釈迦牟尼仏
  • 拝観料:志納
  • 訪問日:令和4年9月21日

higashimatsuyama-kanko.com

若狭局が持ち帰った源頼家の位牌を祀る寺

宗悟寺は、鎌倉幕府第二代将軍(鎌倉殿)・源頼家の側室である若狭局(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での役名は「せつ」)が、北条氏の謀略によって修善寺で暗殺された頼家の菩提を弔うために尼となって創建した「寿昌寺」がはじまりとされています。

扇谷山の扁額が掲げられた山門

源頼家の位牌が祀られている本堂

天正20年(1592年)にこの地を領地とした旗本・森川金右衛門氏俊が復興して「宗悟寺」と改めたというこの寺には、比企能員の娘である若狭局が持ち帰ったと伝わる源頼家の位牌、そして若狭局が頼家を失った苦しみから逃れるために祈願したという蛇苦止(じゃくし)観音が祀られています。

写真は撮れないので境内の案内板でご覧ください

「鎌倉殿の13人」では、「比企能員の変」でトウの手にかかって命を落としてしまう若狭局ですが、実際は生き延びて再び武蔵の地を踏んだということなんでしょうかね。

なお、ヤンチャな人が好みそうなこの蛇苦止観音の「蛇苦止」という字面は、若狭局の「あたかも体を蛇に巻き付かれたような苦しみを止める」からきているといいますから、夫・頼家を失ったその苦しさに少しは想いをいたすことができますでしょうか。

また、境内には地元の有志による「比企一族顕彰碑」が設置されています。

地元の有志による比企一族顕彰碑

この碑は「比企一族顕彰碑建設委員会」によって平成6年(1994年)に建てられたものだそうですが、郷土を愛し比企一族を愛する地元の人々の思いがひしひしと伝わってきます。

ちなみに、この宗悟寺の参道の入り口にあるお宅のガレージではたくさんの猫ちゃんがお昼寝をしていましたが、このお宅の奥様に伺ったところによると、この猫ちゃんは「鎌倉殿の13人」の本編後の紀行に映ったんですって。

手前右の子がテレビに映ったそうです

……が、調べてみたところ紀行で宗悟寺は紹介されていないので、取材はされたけどボツになったのか、あるいは別の番組の取材だったのかは定かではありませんが(「テレビに映った」という感じでお話しされていたので後者かな?)、この猫ちゃんがたいそう可愛かったのは事実なのでそれでヨシとします(笑)

アクセス

埼玉県東松山市大谷400
「大谷交差点」バス停から徒歩約15分
駐車場あり

【源範頼ゆかりの地】吉見観音(安楽寺)(比企郡吉見町)

こんにちは、よたろうです。

今回は比企郡吉見町の吉見観音(安楽寺)を紹介します。

データ

yoshimikannon.jp

源範頼が幼少期に身を隠したと伝わる寺院

古くから「吉見観音」として親しまれている安楽寺は、今から約1300年ほど前に奈良時代の僧・行基が岩窟に観音像を安置したのがはじまりと言われています。

参道を進むと見えてくる仁王門

迫力のある真っ赤な仁王像がお出迎え

この仁王門をくぐって境内に足を踏み入れると、高台左手の本堂、右手の三重塔のほか、「吉見大仏」と呼ばれる阿弥陀如来座像が一望でき、さながら京都や奈良の寺院かのような光景が目に飛び込んできて、ちょっとテンションが上がりますよ(笑)

吉見大仏は松の木に隠れてしまいました……

平安時代の末期には、平治の乱後にこの地に逃れてきた源頼朝の異母弟・源範頼がその幼少期に身を隠したと伝えられ、ここから北西に1kmほどのところには源範頼の館跡とされる息障院があります。

kamakura13.hatenablog.com

この安楽寺と息障院は、かつては一つの大寺院を形成していたとのことで、現在も地名として残る「御所」の名に違わず、かなりの規模を誇っていたようですね。

この地を領し「吉見御所」とも尊称されたという源範頼が本堂、および三重塔を建立したと伝えられていますが、天文年間(1532年~1555年)の上杉氏と後北条氏との戦による松山城の落城に際してこれらの大伽藍はすべて焼失してしまったとのことで、現在の本堂は寛文元年(1661年)に、三重塔はそれよりも前の寛永年間(1624年~1644年)に再建されたものだそうです。

風格のある密教本堂

総高約24.3mの三重塔

源範頼の死に関しては様々な説があるようですが、その中には謀反の疑いをかけられて修善寺に流された後、この吉見観音に落ち延びて隠れ住んだ……という説もあるそうです。

私は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」以外の映像作品で源範頼を見たことがないため、「源範頼迫田孝也さん」のイメージしかありませんが、同作での蒲殿のいい人ぶりを見ると、鎌倉から遠く離れたこの吉見の地でひっそりと余生を過ごしたのが事実であってほしいなぁ……と思わずにいられません。

社務所前に佇んでいた猫冠者

アクセス

埼玉県比企郡吉見町御所374
「久保田」バス停から徒歩約35分
駐車場あり